誰が弱者なのか

後藤健二さん、、。

うちの下の小学五年生の息子が、先日そろばんの帰る時間がいつもより遅いので、聞いて見たら若干のいじめ的、遊び程度のいたずらを、ある友達からされていたのがわかった。
自転車の鍵を取らずにそろばん教室にはいって、終わると先に出ていた友達がうちの息子の自転車に乗って家に帰って、それを追いかけて帰る羽目になり、帰るのが遅くなった、というわけであった。

その少し前に、他の友達からもう少しタチの悪いのがあった。それについては、総合的に判断して、僕たち親から担任に連絡する形で決着させた。今回のは、遅めに帰って来た当日の夜に、その子を連れた親が謝りに来宅した。

そのこどもの顔は、悪い子の顔ではなかった。

僕の怒りは心頭であったが、その子の顔を見て、子供らしい、少し調子に乗ったいたずらゴコロであると腑に落ちて僕は、彼とこう約束することにした。

君の人生の目標をしっかり見つけて、それに向かって頑張りなさい。うちの子にもそう言っている。
そして今日みたいな心の揺れに惑わされず、真剣にそれを頑張れば、きっと幸せになれる。
そんないい友達になってください。

小学五年生のお友達は、僕の迫力にか、意味のわからない大人の論理にか、圧倒されて泣いていたが、あの子はきっともう大丈夫だろう。

そして後日もう一人、タチの悪い子の件で、担任から電話があって、自宅に居た僕が担任と直接話すことになった。
他にも幾つかあったが、最終担任に報告する事にした件というのは、うちにその子が電話をしてきて、うちの子を呼び出すと、宿題の答えを教えてくれというのである。うちの子には、宿題は済ましたのだけど答え合わせをするから、だとか言って、最初は断って居たうちの子から終いには答えを聞き出すことに成功するという、ハイテクを披露した。

さて、他にもあってのこの報告に、担任の先生が、謝罪の言葉を挟みながら今後またしっかり指導をして行く、というのを、先生が謝罪するのはおかしい、と僕が念を押しながら聞き、しかしこれだけは伝えておきたいと、僕はこんなことを言った。

「僕は、一方的に彼やそのご家族の過失を責めるために報告してるのではなくて、誰が、どの立場で弱者か、を問題に考えた時、こうするしかないと考えたわけです。
一般的に、ご家庭の事情、その環境によってその子供たちの情緒が大きく影響を受けて性格形成され、行動に現れるわけですから、言ってみれば、その環境にある彼らは社会的に弱者とも言えます。
しかし、1体1の子供同志では、人間の平等さを考慮するまで考えが及ばずに、わがままを無分別に押し付ける者は単純に強者であり、それに対して防衛する知識、経験の少ないものは、相対的に弱者なのです。
僕は、弱者は誰かと考えた時、今回はうちの子が弱者だと結論し、それを守る必要があると思いました」

こんな話を担任の先生にしようと思うのは、担任の先生が僕よりも歳下だからというのと、親は必ずしも自分の子だから守るという理屈で行動しているのではない、ということを理解しておいて欲しいのと、もうひとつの理由、実はうちの子の通う小学校にも、あの後藤健二さんが、二年前に講演に来て居たことを子達から聞いて、何となく、直接的な理由でなく、先生達はどう感じてるのか、今回のことで先生達は子供たちにどう、何を教えるのか、気になっていたからである。

弱者は一体誰なのか。

それは視点に依ってかわるけれど、それぞれの立場を考慮しながら、そのバックグラウンド、それぞれの立場の本当の意図、どんな種類の欲望を僕たち人間は持っているのかを、先生達は子供たちに知らせて下さっているのか。

金、宗教の対外的な優位性、民族的な尊厳、怨恨、個人的な名誉、そしてそれらの欲望の中で最も尊重されるべき物が、命であることを、先生たちは子供たちに知らせてくださっているでしょうか。

そういった趣旨で、後藤健二さんがうちの子の通う小学校にも、訪れていたはずだ。世界の中の弱者が、どんな目にあっているのか、その彼らが、自分と何が違うのかを、考えるきっかけのために。

そしてまた、ジャーナリズムと芸術の共通点を、少なからず感じながら音楽を続けて来た自分は、改めてそれを考えることになった。

弱者は誰か。

自分は弱者の味方でありたいです。
何も知らず何も出来ず、傲慢で嘘つきで弱くて取り柄の無い自分が音楽と出会い、どうありたいかを考え始め、それを自分に課せ続ける音楽は、自分の宝です。

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