これから、私がやりたい事は、
本当のことを、勘違いで聴き手に責任をあずけて、
表現を、勘違いという罪と快との裏腹にまかせて、
このままお金のことを考えながら、
考えてないフリをして
ニコニコ満足気に演奏し続けることではない。
と、
リハのあとに
飲みながらこんな話ししてると
原爆を許すまじ、て曲とか
戦争許すまじ、と平和公園の前に書かれてることとかの
被害者の祈りをこめた美しき思い出を、
ある巨悪が自分達の罪の所在をカモフラージュのために使っているのだと、
久しぶりに言いたくなって
名言が出たのでここに忘備録として残す。
許すまじ、は、原爆でも、
戦争でもない。
許されざるべき、は
戦争を、帝国主義という、商業主義の極みにリアルな人間の悪を持ち込んだ一部の利権を持った人達の、歴史のなかの、ある形であり
原爆はまたその物理的な形であり
人類が持ちうる補償力をゆうに超えた原子力発電もその利権を合法的に存続させるための隠れ蓑であり
本当に歌われるべき歌詞は、
「利権、許すまじ」である、
と
私はうたう
これから
そういうことを歌うために、
満足気に演奏することだろう。