星の王子様

印象的な部分を抜粋してみます

『僕の友達は、説明というものを一度もしてくれなかったのだから。たぶん、僕も自分と同じだと思ったのだろう。けれど僕は、残念ながら、木箱のなかのヒツジを見ることはできない。たぶん、僕はもう、おとなたちと多少同じなのだろう』

『一番大切な事は、目にみえない』

『君のバラをかけがえのないものにしたのは、君が、バラのために費やした時間だったんだ』

『水のこととも似てる。きみがぼくに飲ませてくれた水は、音楽みたいだった。滑車が歌って、綱がきしんで、、ほら、思い出すでしょ、、心にもおいしい水だった』

私は説明が好きだし、やめるきはない。
しかし、説明がちな音楽をとても嫌悪している。

人間の土地、を次は読んでみようかな。

それともう一つ思ったことは、これは優しい物語であると同時に優しい言葉(おそらく、翻訳される前の原文自体)を使って書かれている。

優しい言葉で書かれているから、子供向けの物語のように思われるが、これは言ったように大人のために書かれている。そんな言葉で書かれたために、大人になったころ、皆この本に興味を失うというジレンマを含んでいる。

弱さは弱さのままでなければその価値は伝わらないが、大人には弱さに価値はない。

既に大人の人達にはそういう理由で必要ないものになりがちだ、が

それに価値を持たせたものは、、多くのひとに共通する小さいころみた心象風景だろうか。
これは結論じゃない。

で、結論を書けるようになるのを待って今になった。(12/28)

私はページをめくりながら、何か退屈でもあり、また小さく儚い王子様の心の存在に感動もして、こうして感想を書く羽目にもなるこの読書する自分と対面しながら、読み進んでいた。

退屈さの理由は、、サン=テグジュペリの書きたいこと、それが私が普段考えていることだからだと思う。
前回の冗談「自分は星の王子様のような大人」だというセリフは、実は現実であった。

そして、そろそろ自分が、「優しい言葉」の使い手になる時期が、必然的に来ていることに、イライラもしていた。

大人が、子供に必要であるような表面的な優しさを、感動のために?求めている時代なのだ。

私は、その受け身なメタファーの受信を告発することのほうに興味があるが、
それは人生最後の作品を創作する時までお預けにしてもいいと思う。

いや、きっと批判を漏れだし垂れ流しながら、逆の優しさ溢れる表現で、ナンセンスな現実感を出すのが関の山で(ナンセンスな現実感を四文字熟語で諸行無常というだろうから)、そしてそれを事実だとすると、これがまだ私が「かろみ」ではなく「侘び寂び」の段階にしか居てないことの証拠である。

そうおもうと、、

やはりサン=テグジュペリは、まだ先に居ることが理解出来るのでした。

以上。

(と書いてはみたが、まだまだ文章が拙いために、結論をいそいでしまって居る。こうして自分の諸行無常感を客観視しながら創作する人間が、ナンセンスな現実感だけでなく、ある種のかろみを含む表現をして居る事実もあると思うが、それは自分で評価できることではないし、評価する側が知っていて、価値を認めるかどうかであるから、それは私の手を離れたあとのことである、というのがより現実的だし、しかし書くべきかどうか迷う部分であった。)

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