『リズムの本質について−L Klages』をよんで

今回読んだのは哲学の王道の命題から外れて、

ジュンク堂書店の哲学コーナーの辺りに置いてあるにしては珍しいキーワードに目が止まり、思わず買ってしまっていた

『リズムの本質について−L Klages』

吉増克寛、平澤伸一訳、

うぶすな書院

です。

芸術、美については数々の哲学者が語っております。

その一翼である音楽の、

根本的な命題である「リズム」を哲学的考察で説かれるならば、他を差し置いても読まない訳にはいかないのであります。

5月20日にこれ次読む宣言の投稿をして中々進まないと愚痴をこぼした投稿も途中ありましたが、いざとなると読了に至り、胸をなでおろしました。

僕の解釈の説明のために、少しずつ気になった言葉を引用しながら行きます。長いですよ。

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第一章 現象研究の意味について

→ここでは著者はリズムの定義づけのために、まずリズムは硬直した物世界ではなく、永遠に続く変化の中にある現象の世界に属し、類似性の反復が体験されることによって現象する、と説明する。

そりゃあそうだろう、て話ではあるが、哲学的に考察するためには、敵が居る場所が何処なのかをまずハッキリする必要があるらしい。

第二章 拍子についての暫定的所見

→ここでは過去の研究者の仕事を引用して、そこから

P9
つまり、聞こえるものを拍子で区切ったり拍子に合わせて「朗誦したり」するように促す力や威力がわれわれ自身の内部にあって、それが可能なかぎり単純な音群形成を志向しているということである。

→という所見を暫定的にだし、

P10
精神への同化はその本質つまりそれが区分する作業であるという本質が認識されないまま形を与える作業であるとこれまでもうけとられてきたしいまも受け取られている。

→という言葉で、リズムの現象する様と、拍子をもたらす精神は混同されがちであり、これまで区別はされてもそれ以上の問われ方が必要である、と論じて、この著作の方向性が示される。

第三章 分節化された連続性としてのリズム

→いくつかの例をあげて、

P25

どんな概念も把握的判断と指示的判断という二つの判断様式の基盤となりうる、と。一つは思考が産み出すものと関係し、もう一つは感知界と関係する。作図法則は、例えば多角形から円を求めるときに用いるような概念の対象である。それに対して多角形の現象と円の現象とのあいだには、どんな移行もありえない。

→こんな言葉で、リズムという連続性の現象は、体験でしか判断できない概念であり、把握能力では到達できないものである、とする。

第四章 意識と体験

P37

精神と生命との対立を証明しようというよりそれを前提としている仕事の枠内で次の決定的な命題を支持するためには十分であるとしよう。すなわち、体験は意識されず、意識は何ものも体験できない。

→これによって、後にこの著作で結論される「生命」に由来する「リズム」と、「精神」に由来する「拍子」の深遠なる隔絶を論じ、

P40

精神的行為が行われていることを体験している拍子の体験は目覚めさせ覚醒を維持する。それに対してリズムの体験は、もしそれが実際いわば意識の下部で経過するなら、それが優勢になればなるほどあらゆる緊張が緩みそしてそれゆえにとりわけ睡眠状態に導くことになるものであろう。

P41

生命過程を精神の行為的活動から区別し体験の内容を意識の対象から区別することが何よりも重要であったこと、そしてそのためには意識の届かない睡眠の体験性格を指し示す以上にすばらしく役立つものはほかにはないということである。

→睡眠時の意識、無意識体験を例にして、ヨーロッパ哲学で混同されがちな生命体験と精神行為の区別を論じる。

第五章 リズムに拍子をつける可能性について

P46
したがって上に提示したように、リズムと拍子が対立しているからといって、運動の連続性がリズムとして体験されるためにそこに拍子が加わらなければならないような特定の場合があることを妨げることは全くないことがわかるであろう。それゆえやはり決定的なものは運動なのである。

P47

その発生源の本質的創痍にもかかわらずリズムと拍子とは人間のなかで互いに融合しうるということが示された。というのもすでにあるリズムでさえ拍子をつけることによって場合によってはリズムの作用が強まることがあるからである。

P48

われわれをここまで導いてきた対立を、別の側面から光をあてることによって、もっと明確にするようにつとめなければならない。

→リズムと拍子とは深遠なる隔絶があると同時に人間のなかで融合し得る、その矛盾を明確にする必要があると論じている。

第六章 反復と更新

P49
数学的正確さで動く振り子時計はない。しかしそれの誤差はふつうの人の気づくことのできる限界のかなたにあり、したがって現象の領域にはない。それに対して自然の水の波は、どれもその前のどの波とも目に見えて異なっている。拍子が同一のものを反復とすれば、リズムについてはこう言わなければならない。リズムでは類似が回帰する、と。さてまた類似のものの回帰は流れ去るものとの関係ではそれの更新と考えられるので、端的にこう言わなければならない。拍子は反復し、リズムは更新する、と。
拍子は精神に所属しリズムは生命に所属するという対立が、連続性という事態よりも更新という事態においてもっともくっきりと現れる。

P52
結局のところ出会うのは生命のどの局面をも支配するリズムである。

P56
芸術家のリズム的な演奏が区別されるのかがわかる。後者では一つにはメロディの運動があらゆる節目に橋を架け、休止さえ生き生きとした振動で満たすことである。次にまだリズムが妨害されるまでにはならないかすかに感じ取れる範囲内で、テンポが絶え間なく動揺することである。

→リズムという肉体的体験は、計算可能な反復ではなく、見積もりだけが可能な更新であり、全ての自然が生命的更新に基づいている。

第七章 リズムの時空性

P60
そして現象の時間性のリズム的分節化はしたがって常に同時に現象の空間性のリズム的分節化であり、逆もまた同じである。

P62
ポルトガルの民謡が言うには「盲人は生きものにちょっと気づくだけですぐに歌まで歌いだす」のである。ここでの同じ事実が、音と響きとはわれわれを強く動かすことができるものであるので、それ自体が何か動かされたものであり、したがってあらゆる動かされの舞台である空間を必然的に現象させるという確信を強めてくれる。

→リズムは既成概念から脱し、時間性だけでなく、空間性をも貫いていると論証する。

第八章 分極した連続性としてのリズム

P73

しかし満ち潮と引き潮、受け取ることと手放すこと、出会うことと別れることという人生の免れがたい交代につれてあらゆるリズム的な脈打ちを何よりも人間の生命を映し出す深い感動に変るものは、ただそのような分割規則にはふくまれていないものだけなのである。このことを感じることのできない人、そしてそれゆえにまた考えることもできない人は、偉大な韻律学者であったとしても、リズムには縁がないままであろう。

→これは演奏者にとってはわかりやすい参考ポイントを論じている。

ところが、僕としては残念ながら分極とリズムを不可分とする叙情的な理解は必ずしも当たっていないと思う。叙情的な理解が無くとも、素晴らしいリズムを打ち出す演奏者は居うるし、ただ、その演奏者はリズムを理解することによって、その人の人生においてあとから叙情的な理解が深まっていくということは大いにあると考える。加えて、その叙情性は、リズムの演奏者の理解の度合いと、聴衆側の理解がかけあわさり、感動の度合いに結実するのが、事実であると思います。

P76

拍子の名に負わされている規則現象は何らかの性格特徴によってリズムに関していなければならないのであって、そうであれば確かにその特徴は精神の生命への侵入を物語るものであると同時に敵対するこの二つの威力の結合箇所を意味するものであろう。

→拍子の規則現象を、対立矛盾するリズムとの融合箇所と示す。

第九章 拍子の生命的内実

P79

拍子は、音による分割の鋭さ、厳格な規則性、その継起が見通せることによって完全なものになる。

P81

未開人はいわば遊び半分に拍子を無秩序に投げ散らかしていながらそのために拍子を失うことがない。このようなことを可能にしたものは彼らの内的なリズムの豊かさであること、他方反対にわれわれが内的にもつリズムははるかに衰弱したものであるために、拍子を保ちそれによってリズムを保つためにできるかぎり秩序だった拍子を必要とするということである。したがってリズムは拍節が極度に強調されることによって間違いなく抑制されるが、そのことは別にしても、リズムは明らかにまた拍節が放棄されることによっても消えてなくなるのである。

P82
そのつどただ経験によってしか確認できない範囲内で、(どんな種類のものであれ)妨害あるいは欠乏はそれに見舞われた生命過程を強化する、と。

→この著作の結論のために一番重要な論証である。結論は次章で語られる。

第十章 展望

P96
彼は、表現に含まれるリズム的内実は情動の表現の一部ではないという命題を主張していたのである。始めに激しい怒りの状態を思い浮かべそしてこう自問してみるとよい。その状態は運動にリズム的な活力を与えるのに適しているだろうか、と。あるいはむしろその状態はそうでなければその運動に内在していたリズムを手痛く妨害しているのではないか、と。
ー中略ーしかしなぜ幸運に恵まれた人のほうがよりリズム的に踊れるのかという疑問ついては答える必要がある。
ー中略ー若者は年寄りよりもリズム的に踊る。少しだけ酔った人は完全にしらふの人よりよりリズム的に踊る。
ー中略ー三つの例に共通するものとは何か。抑制的感情からの自由あるいは解放である。そらゆえ情動がリズムを生み出すのではなく、特定の激情、状態、人生段階と結びついてそれに対立する人生段階、状態、激情につきまとっていたある種の抑制が脱落することが、リズムを生み出すのである。しかしそれでは抑制が解除された後にリズム的に拍動することができるその抑制されたものとは何なのであろうか。
ー中略ーすなわち生命それ自体が抵抗を乗り越え優勢になるにつれて、過程や形をリズム化するのである。したがってリズムの中で振動するということは生命の拍動の中で振動するということを意味する。したがってさらにその上に、精神が生命の拍動を狭く抑制している枠が一時的に取り払われることを意味するのである。

P97
それについて言葉の知恵はこう告げている。生命は個体にただ「貸し与えられている」だけである、と。われわれは個体を狭義の心情と呼び、それによって次のことを表現したいと思う。つまり心情の一部になることによって個体生命は自分の肉体的なここといまという境界を打ち破り、つかの間生命の世界と融合する力を与えられる、と。

P100

リズムの意味のもっとも基底的な根拠は、現実時間の拍動する歩みにあるのである。

したがって個体心情がリズ厶の中で振動すると、たとえどんなに短い瞬間であろうとも、生起の双極を結合しているものつまり過ぎ去りと生成とを結合する永遠と一つになるのである。

→そういうことが言いたいのだろうことは想像できる。

哲学の作法である弁証法を使用してリズムという命題に取り組んだら、こうなった、という感じです。

まあ、意外な結論では無かったのが

残念でもあり、踏み台にするには丁度良かったようにもおもいます。

次はこれを機に音楽に関するものつながりでテオドール・アドルノの著作「不協和音」か「音楽社会学序説」を読んでいこうかと思います。

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本日は2019/7/20、只今翌日の舞鶴のイベントのために前乗りした東舞鶴駅前のホテルにて、時間を弄んでおります。(といいながらこの日は終わらず、この記事アップまでに延べ3日を要して本日26日となっております)

私、音楽の意味、価値というものについて知りたくて哲学関連の勉強を人生の宿題として気分次第に読み続けてカレコレ十年余り、

ある程度時系列に沿ってこれまでに読んだのは新、旧約聖書、アリストテレス「形而上学」、ルネ・デカルト「省察」、ブレーズ・パスカル「パンセ」、ジャンジャック・ルソー「告白」(笑)、スピノザ「エチカ」(難)、フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラ」(最お勧め)、その他フロイト、ユング、バタイユ、ショーペンハウアーなど

今後の予定としては、鶴見俊輔 「限界芸術論」、浅田彰「ヘルメスの音楽」、エマヌエル・カント「純粋理性批判」、マルティン・ハイデガー「存在と時間」、マルクス「資本論」、キルケゴール、サルトル、そのほか沢山ありますので死ぬまでにはおそらく間にあいません。

がだからといって、飛躍していっそ先にシンデシマエと結論するわけにもゆかず、なんとかこの宿題を諦めず、一歩ずつ必ず、すすめて参る所存です。