バイタリティーについて(追記にて結論する)

メンタルについての最近のはやりの話題といえば、やはり

他人事を他人事としてやり過ごすバイタリティと、プライドもしくは完璧主義または溢れるアガペーによるおせっかい的な見守り、啓蒙、ある意味介入との、前線をどこに置くべきか、という問題ではないだろうか。

モチロン高気圧本人的には、自分の行いが介入だとは思っていない。

思っていないし、介入だとされるかもしれないハラスメントラインに対してはかなり敏感になっているので、目標はあくまでも、啓蒙までである。

先日も、ベーシストの木村知之さんと杯を交わす機会に、意図せずその話題になって、木村さんはベーシストらしくと言っていいのか、低気圧側、他人事としてやり過ごすようなことをおっしゃっていた。

それは、とても重要なことだ。

そして、にもかかわらず、世界中の天気図から前線のタグイが無くならないのは、ひょとして啓蒙には、見込まれ得る何らかの利益、言えば侵略の側面があるのだろうか?

確かに、かつて様々な国が、啓蒙の名の元に布教を侵略に利用してきた歴史は、数え切れないほどあるはずだ。

今まで僕が、信じていた啓蒙という音楽の価値の一つは、記号化されていない場合には正しく音が苦になるということになる。

それを僕は認めるのかどうか、、ほぼ認めざるを得ない気が、現在のところ、ある。

さて、では記号化されている場合の価値については、僕はやはりすでに書いたことがあるように議論の余地なく、それ以外に無いのではないかと考えている。

では、残るは、啓蒙が目的である教育の現場での啓蒙の価値とは、ということになる。

とここまで散歩しながらの文章であったが、最後携帯をしまい、空を見ながら帰って来る間に、結論に近いものは出た。
リーダーによって音楽は変わるべきだといつも思う。

だから、僕は啓蒙も音楽的な導きも無い名ばかりのリーダーベーシストに飽き足らず、音楽的にもリーダーとして立つために、フロントとして音楽に関わることに決めた訳である。

その意味では、その教育の現場の、誰がリーダーであるのかに、委ねられるのだろうと思う。

家の個人レッスンでは、リーダーは僕であり、

専門学校の現場では、それぞれ任された人間が居て少なくとも僕では無いのである。

何故なら、

ベースを教わりに来ている人間の殆どは、ベースを啓蒙されに来ているのであって、社会的に生産性のある音楽の作り方を啓蒙されに来ているのであって、

非生産的な音楽のあり様、存在価値について啓蒙されに来ているのでは無い、と

私立の法人がこう考えるのは合理的普通であると、僕がわかっているからである。

社会的に生産性のある、、というこの言葉は、甚だ他律的である。

マジョリティに売れるもの、を価値、と言っているということはそういうことだからである。

生きて行くために、流変する売れるものを追いかけるということが意味するのは、

バイタリティとは、他律的である、ということに思い至る。

他律的たれ、ということが、他人事を他人事としてやり過ごすことと矛盾するのかしないのか、、
生きる、ということは何とも難しいことで御座います、な。。

ガハハハ!

追記。

矛盾なのかどうか、この投稿で最初に勘で書いた

「他人事を他人事として過ごすことをバイタリティと言える」のかを検証する必要があるようだ。

他人事はそもそも他人事であるが、人権に抵触しないようにする意味ではなく、他者に深く関わる事で面倒なことに巻き込まれずに済むようあしらうことまでも、本質は他者の尊重であり翻っては自己の尊重でもある。

個の尊重は自律的であることの重要性が理解できなければ成せない行為なので、やはりあしらい、は自律的であるといえるか。

ではそれがバイタリティであるのかどうか。

個の尊重は社会性の一つであろう。社会的価値観においてのバイタリティといえる。

では矛盾はあるのか。

わかった。マジョリティに認められるためのバイタリティーは、経済的価値観においてのバイタリティーなのだ。

人間は、社会的価値観においては自律的で、

経済的価値観においては他律的であることで、

生きて行くことが、比較的容易になるのだ。

この区別は教育の視点で重要だろう。そして一つも矛盾しない。