テスト氏を読んで

ポールヴァレリー 『テスト氏』を読んで

皆様お元気ですか?
梅雨の合間の晴れた日の太陽が雨が降る前の太陽よりもジリジリ感じます。

梅雨入り前の話題ですが、
子供の頃、夜中に数十年に一度の皆既月食があると聞いて、兄姉に起こしてくれるよう必死に頼んでいたのにもかかわらず朝になって「起こしたけど起きなかったから」という理由を聞いて終わった悔いの残る皆既月食の思い出があるにもかかわらず、今回の皆既日食を、僕はスルーしました。
僕はもう日食と月食には振り回されまい、としているようですね。

月食の時間に起こして欲しい気持ちを、寝る前にありったけの切実感で訴えた筈でしたが、低学年の本気は、高学年にとっての日常だったのでしょうか。

この出来事は、子供扱いをされた侮辱感や、そしていくら訴えようが届かない焦燥、果てしない世代間格差、プチ差別を感じた一番古い思い出かも知れません。(もしくは、本当に起きなかったんでしょうね!それか!)

☆☆☆☆☆

こんなことからもわかりますが、
人間は一人一人、生まれながら体格も性格も環境も違う訳ですから、
恐らく、人類は寿命が500歳くらいに伸びて個人の成熟度合が増えたとしても、
差別を無くすことは出来ないかとは思いますが、目標はそこではありません。

それは、「どう有るか、どこへ向かうか」です。「差別がなくなるか、達成は可能か」ではありません。
今の話しだと、「差別を無くす方向に向かって生きているか」です。
何かを諦めずに居ること。そしてその方向に向かおうとするのを応援することだと、僕は考えています。

そして、こうした活動が、自分の表現活動にどんな影響をあたえるのかが、
僕の興味の対象の一つになっています。
まだ結果らしいものが出る段階でもないと思いますが、
この読書会は、既に何かしら僕を変え始めている、その方向の中にいる、と実感しています。

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今回の題材は、ポールヴァレリーの「テスト氏」(現代思潮社 粟津則雄訳)です。
いつも通りWikipediaからの抜粋で簡単に紹介致しますと、

ポール・ヴァレリー

アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Valéry, 1871年10月30日 – 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。

テスト氏、とは何だろう?名前だろうことは想像できるが、物語の主人公の名前としては甘い想像力を拒絶する。

こんな印象でした。

読み始めてみて、やっと、意味がわかりました。
と書きたいところですが、
実は、読み始めてもなかなか意味がわかりません。
ポールヴァレリー風に、いや、テスト氏風に言うと、書かれた言葉はすべて、
意味が意味であることを否定してかかるものですから、
テスト氏の世界観を把握出来ないまま読み進まなければ行けません。

しかし反面、普段心の中で注意を留め、確信に至るまでの雑多な思考の流れの中から、
いとも簡単に未知の言葉を一本釣りして行くポールヴァレリーの鮮やかさに励まされ、
テスト氏自体の存在をなんらかのメタファーとして受け入れる準備が何時の間にかできていきます。

まず、2度目の英訳の為に書かれた序文から一つ。
「つまり、一般に結果などというものは ー 当然、作品もそれにふくまれるのだが ー 、私にとっては、作り手のエネルギー ー 作り手ののぞむ事物の実質 ー にくらべて、はるかにつまらぬものであった」

何とまあ!それって僕がさっきこのブログの最初に回りくどく書いた事ですよ!
そんな簡単に自信満々で言っちゃってからに。

「他人に及ぼすべき効果への配慮と、自分を、あるがままに、何ひとつ見落とさず、何ひとついつわらず、いかなる自己満足も抱くことなく、認識し確認しようとする情熱との双方に、おのれの野心を分割することはわたしには恥ずべきふるまいと思われた。」

オイオイオイ!恥ずべきふるまいと??
そ、それは民主主義的社会人なら理想像として持ってもおかしくない、何ら恥ずかしくない態度ではないですか!!
イーノかなー!そんなこと堂々と!大人なのに!このバカちんが!

…言いなさい。なんでも言ってください。
それが恥ずべきことと言う意味を僕は知っています。
そうですか、テスト氏とは、それを言ってしまうような人なのですね。

本文になる「テスト氏との一夜」から。

「未来のなかの明白な一部分に対するこういう視覚を育てることが教育の一部をなすべきだとわたしは思っている。」

こ、これは!アートオンブズマンの趣旨そのものではないか!これこそアートリテラシーが社会に必要であるとする論理だよ!

そしてこれらの僕の興味の中心部に向けて放たれる言葉の矢は、悔しいかなテスト氏自体が狙いを定めて射抜く意思を持っていたというわけでもないということも理解しながら進みます。
その彼の歩く至る所に表面張力を越えた体液でシミを描きながら、「どう有るか」にのみ言及していきます。

僕は示唆を得ると同時に突き放されるという、いわゆる芸術鑑賞における最高水準の経験をしました。

さて今回も長文にお付き合い下さいましてありがとうございました。

お元気でお過ごしください。

(2014/6/22)

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