心の解像度をアゲる、について

こんにちは、お休みの間に疲れは取れましたでしょうか?

今日は、昨日と打って変わって青空が広がる大阪平野。
ベランダで、コスモスと一緒に植えていたトマトが熟れて、本日食しました。
その代わり、トマトに栄養を取られるのかコスモスの方は息も絶え絶えです。
ひょっとしたら、鉢植え菜園において、やってはいけないことをしてるのかもしれません。

さて、昨日は大阪平野に蓋をする黒い雲の下、僕の生活空間から緯度を下げた、雨の岸和田に行ってまいりました。

奥様のボイストレーニングレッスンが岸和田周辺でも幾つか開催されていまして、そのあたり一帯の受講生の方達のためのヴォーカル発表会がありました。僕はそこでベースを弾くために、そして一曲だけアカペラのベースパートを歌うために参加して来ました。

その打ち上げで少し深い話が出来たので、忘れないうちに書いておこうと思います。

発表会のトリを務められたかたは、高校の国語教師をしてらっしゃる女性で、ナットキングコールの歌で有名な Orange Colored Sky をとても興味ある完成度で歌いあげられていました。
彼女は僕の参加したアカペラチームにもいらして一緒に声も出し、打ち上げの席ではメンバー各々が、リハーサルの取れないなかThe Real Group というテクニカルなアカペラグループのChili Con Carneというラテン風の難曲に挑むプレッシャー、そして本番での緊張感と終わったあとの達成感など、それぞれを謙遜と反省と笑を織り交ぜながら話しました。

こういったことが、自分たちの次の日のエネルギーになるのは、なぜなんだろーと、不思議な気もしながらの楽しい時間でした。

そこで、ふと国語教師がどんなものかを聞いて見たのです。

彼女の専門は国語学の中の国語表現というものだそうです。

例えば、自分のこと、好きなこと嫌いなこと、ある商品のいいとこ悪いとこ等、それを表現する事を授業の中で取り入れて、文章で表現したりもするらしいです。

そこで、その表現する手前で、日本人一般は日本語で心を細分化する訳だけれど、
子供達の中でそれ等を苦手とする子たちは、どう思う?と聞いたら「すごい」とか「かっこいい」とかの一言でしか感想が言えないのです。

感情とは、本来地続きで、なんの仕切りもないノッペリとした地面をもつ感情の領域が、言葉によってしか区画され得ないもので、

言葉は様々な感情によって区分けされたそれぞれの引き出しに仕舞い預けられるわけで、

感情表現をする場合に彼らが困るのが、語彙の欠如と言うよりも、
その引き出し数、感情の細分化が進んでいないことに起因するのではないか、
細分化が進めば、表現することも、それを理解することも上手になり、たがいに理解し合える可能性も増えるのではないか、
という話になり、盛り上がりました。

☆☆

僕はそこから持論を披露して、またお話をできる機会があることをたのしみにして席を移動し、別のテーブルで執り行われてた「なぜ3人の子持ちでありながら可愛い服を着て可愛い素振りをして男性陣を油断させた挙句に、割と堂々と歌いこなしているのだ」と黄色から橙色に移りつつある大声の飛び交う、確かに若く見える女性の魔女裁判の陪審員になり、笑いすぎて疲れ果ててなんとか解散まですごしました。

その時に話した持論とそれに少し加えたものが以下です。

○それを、今風の言葉で「心の解像度」と僕はいっている。

○それでは、こうした論理的説明が、心の解像度をあげることに大きく寄与するかと言えばそうではない。

○心の解像度をあげる作業は、自分の中でだけで必然的に行われるものじゃなく、他者との関係の中ではじまるということ。必要に迫られるから細分化されるのだ。

○しかし必要がなければ人から人への影響はなにも始まり得ないのかというと、そうではない。

○それを可能にするのが「隠喩(いんゆ、メタファー)」である。

○メタファーは、解決の必然を本人の心に持たせることができる。

○メタファーによって、心の解像度をあげる作業が、本人の心のなかで自主的に始まるのである。

○こうしたメタファーの効果は言語は勿論、音楽や他の芸術分野で見られるが、

とくにこの事こそが、芸術の役割の核心であり、
言ってみればメタファーがなければ芸術ではなく、逆に、メタファーがあればそれはすでに芸術である。

○メタファーの存在のあるかないかが、あくまで受け手側本位であるから、

○そのため、メタファーの構造上、常に「受容側」が主役である。

○メタファーの受容能力の向上は、メタファーの発信能力によって引き上げられる。

○これが芸術の二次的な意味での役割である。
然るに創作、表現活動の基本であり中心は受容行為であり、発信する行為は、より本来的な受容行為を補完するための、言わば手段であり目的ではない。

○詩を読む人はすでに詩人である、と言った三好達治の言葉は、それを象徴している

では、本日も長文になりましたが、お付き合いくださり有難うございます。

ではまた次回!!

(2012/7/2)

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