聖書を読んで

今日は。
こちらのブログを覗いて頂きまして、有難うございます。

まだまだ暑うございます。今年の夏は、夏バテなく過ごされましたか。

少しブログの更新までに期間があいてしまいました。

今回は、聖書を読んで、というテーマですが、
じつは先日僕の親族の不幸という、一つの区切りがございました。

そのために、月末行っているこのブログの更新が送れたのもありまして

幸せなことに、お気に入りなどに登録いただいている方もいるようなので、
少しばかりのお詫びごころを抱きながら、お礼を申し上げます。

今回は一般的に旧約聖書に含まれる創世記と新約聖書の三大福音書などを取り上げました。

2週間ほどでそれらを読み終え、何か書きたい事が浮かんでくるのを数日間いつものように待っている間に、
以前から入院中の義母の容態が緩やかな悪化をみせはじめました。

僕はその生活の中で、聖書を読んだことと、覚えるうつろいとの共通点と相違点とに照準を合わせることに時間がかかり、
義母と妻と、その仲の良い親族を見守ながら、聖書について読後もなかなか書けない日々が続きました。

僕にとって、親の死は今回が2度目であります。
1度目は僕が20代の頃に、母の自死、という形で経験をしまして、これについてはこれまでは親しくしていただいた方には機会をみて話す事があった程度なのですが

今回2度目を経て、1度目の事はもう過去の話になってきたと考えて、一般化して行こうかと思うのでここで触れておきたいと思います。

今回が前と違ったのは、
まえは初めての親の死であったこと、
自分が若かったこと、
今回は入院期間が数ヶ月あり、微力ながら手助けできたこと、
その間に、スローな別れを初めて経験したこと
義母である事やその血縁者の気持ちを大切にしたいと思ったこと、

これらの違いがあると同時に、

Fly Away

「神のもとへ飛び立つ」感覚を持たないブディストにとっての音楽葬の意義の如何についてを考えている自分が居ました。

僕は職業柄、仕事仲間のお身内やご本人に不幸があった場合に、葬儀が音楽葬になる場合が、多々あります。
しかし僕はある時から音楽葬には出席しないと決めました。いつ変わるとも知れない決心ですが。

それは、なぜか辛いからなのです。

参列者が演奏してる事に、死者を弔う気持ち感じる以上に、個人の主張を感じることに傷つくのです。
それでは何時ものライブと何が違うのかわからない。
それくらい、普段から死を引き受けて音にしているのだと、いう事はできても
僕にはそう聴こえない。

そんな日本の音楽葬が、往々にして本場と何が違うのかと考えた時、おそらくハッキリしているのは、

死を迎えて、やっと神の元へ飛び立つ死者を、良かったね、やっと神の近くへ行けるんだね、と実感をもって思える宗教心が、

我々ブディスト(仏教徒)には無いということなのではないか、と思います。

唯一神の存在を仲介して、彼ら一神教信者は死者を弔う事が出来るけれども、
唯一神を持たないブディストが音楽葬をにて、何処に向けて音を出すのか
彼らの音は、震え始めた時から、幸か不幸か、あくまでも実存主義的個人主義の枠から出ることがないでしょう。
これは、芸術にとっては多幸なことであり、葬儀においては不幸であると思います。

葬儀は個人主義ではなく、故人主義であるべきだと思うのです。

僕はブディストですから、そんな理由で、今まで行かなかった音楽葬での故人は、自宅にて心の中で弔いました。

ブディストに音楽葬は不可能なのlかというと勿論そうではなくて、
ここで言いたい事は、音楽葬などするのならば、宗教の得手不得手を超えて、故人のための音楽葬でありたいと思うのだということです。

故人と個人の洒落になってしまいました。

ともかく今回の義母の逝去にて、僕は人生においてはじめて真正面から親類の死に相対することができました。
ゆっくりした別れの、辛くも温かい交流の輪に自分がいれてもらえていることが、一つの幸福であるようにも思いました。

そしてこの件が、またどう自分に響き続けるのかを感じていこうと思います。

☆☆

さて、

このところこのブログでは隠喩、特に概念メタファーと言われる、おそらく大昔から現在、未来に至るまで広く生活に関わっているものについて考えています。

聖書はよくメタファーの宝庫である言われます。

メタファーを追求したい欲求があり、ツァラトゥストラ読了のあとはその元ネタとして数えない訳には行かないこれらの聖典を取り上げました。
しかし確かに、隠喩であることは間違いなものもあるものの、僕には、概念メタファーのような、次元を突き抜けるようなもには読み取れず終いでした。

それは、ある観念を伝えるために必要なメタファーであることよりも、神と人との繫がりの裏付けを、言いかえれば、因果関係を書き記すことを目標にしているからかと考えました。

しばしば、メタファーにとっての敵は、因果関係であります。

人は、因果関係を前にして、メタファーの存在に気づかない場合が多々あるのです。

僕はいま、親子、先生と生徒、演奏者と聴衆、著者と読者などの関係を因果関係と言っています。
なんらかの経済的な関係を部分的に持っていることが多いこの関係ですが、
要するに、経済の関係において、人は支出に見合った「モト」を取ろうとするのです。

その行為は、偶々、発信されているメタファーの受信になることもあれば、そうならないこともあります。
そして残念ながら、発信されたメタファーが、行き場がなく空を漂う結末となる事が多いと感じます。
そしてメタファーはその場に漂い続けることなく、その場で消え去るだけです。

☆☆☆

聖書はそんな風に、僕にとってメタファーの宝庫ではなく、因果関係の宝庫でした。

因果関係はメタファーにとってある種のフィルタになりますが、因果関係は、人間の生きる術のうち、最大級のものです。
それを誰も否定出来るものではないし、僕自身が因果関係を追求して来た結果として、メタファーの重要性に気付いた次第なのです。

こうして、聖書の読了を皮切りに、

今、僕たちにとって必要なことは何かを、改めて考えて行きたいと思います。

今日も長文へのお付き合い、有難うございます。

(12.9.11笠松)

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