パスカルを読んで

新年明けましておめでとうございます。
本年もアートオンブズマンをどうぞ宜しくお願いいたします。

アートオンブズマンは、100年後の日本の社会が人の生きやすい国になるように、まず今から親になっていく世代のアートリテラシーを高めて、より相互認知力の高いものにしていく事を目標にして活動しています。

アートリテラシーの高い世代が子育ての時代を経て、彼らの子供達が社会の価値観を担う時、社会にはやっと、人が人を理解できる時代がくるだろうと思います。

先日ある高校で、バスケットボールクラブのキャプテンが顧問の教師の体罰を苦に自殺するという事件がありました。
顧問の論理は「勝ち方の論理」で、学校側の本音を背負っているのだろうと思います。

あるテレビ番組のコメンテーターの方が、それについて言っていたのは、
「負けた時にこそ、どう考え、何を学ぶのか、それが教育の大切なことの一つ」
でした。私も同意見です。

民主主義の原則として、本場USAの大使館が述べた文章があります。
└→ http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-principles1.html

それによりますと、原則として「多数決の原理」と対をなして「少数意見の権利」がありますが、学校教育において、彼らが負け方の論理を学ぶことは「少数意見の権利」の主体として擁護されることと同時に、社会においては自らがその権利を主張または擁護する側になる為の、すなわち民主主義の原則を学ぶ為の重要な機会なのです。

体罰で、その論理が学べるのでしょうか。
体罰が学びに結びつかないのは明白です。体罰は排斥です。弱者排斥の論理です。
その非民主主義的な行為を、民主主義とは何かということを教えるべき立場の人間が行っていることになります。
また仮に事実の隠蔽などがあったならば、学校教育は何をもって民主主義と教えるのでしょう。
はたして、それを教育と言えるのか。

しかし、私たちには、建前で「言えない」としている現実がありはしないでしょうか。

私は保護者の一人として、学校とそれを取り巻く社会に、本音では「勝ち方」、建前で「負け方」を教える教育を求めるのを辞め、多数と少数の共存による社会の発展、真の民主主義の成熟のために、その力になれる個人の育成を、自分自身にも求めたいとこの一年の豊富として静かに思いました。

社会全体のアートリテラシーの高まりが、少数意見を理解し権利を尊重する力につながるのです。
そしてそれがアートの力なのですから。

失った若い命に、心から冥福を祈ります。

今回はブレーズ・パスカルの「パンセ」を読みました。

パスカルについて、Wikipediaからの抜粋で簡単に紹介しますと、
『ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 – 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、神学者、思想家、数学者、物理学者、宗教家である。早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。
「人間は考える葦である」という有名な一節がある随想録『パンセ』や、パスカルの定理やパスカルの三角形などの発見で知られる。ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。かつてフランスで発行されていた500フラン紙幣に肖像が使用されていた。』

彼の功績は若い頃には数学や自然科学(パスカルの原理(流体力学の基礎))で現在も名を残す定理を発見したり、世界で初めて路線バスを考案(その頃は馬車でしたが)したり、数々の功績を残しましたが、1654年11月23日、31才のパスカルが「決定的改心」と呼ばれる断章553を書いた日を境に、39才の生涯を閉じるまでの短い晩年、神学を自分の天命と考えたようです。

パスカルは、前回アートオンブズマン読書会で取り上げたデカルトと、哲学史においてしばしば対比的に紹介されるようです。

デカルトは、理性で神の存在を照明する事を目的にしたのに対して、パスカルは彼を、パンセの中で批判的に言っていて、デカルトの客観性に対して主観性に重きを置いていると分析されています。

確かに彼らの主張は、それぞれ違った道筋によって神の存在、またはその証明による信仰の重要性を説いています。

デカルト 『(前略)実際、疑いを容れないことだが、私に実体を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性のみを表現する観念よりも、いっそう大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいる。さらに、それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実体を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身のうちに含んでいるのである(後略)』(中央公論社 世界の名著「デカルト」省察3より抜粋)

パスカル 『われわれが真理を知るのは、理性によるだけでなく、また心情によってである。われわれが第一原理(他のものから推論することができない命題のこと。のちにクルト・ゲーデルが、無矛盾の論理系は不完全で、完全な系は自己無矛盾ではありえないことを証明した(ゲーデルの不完全性定理))を知るのは、後者によるのである。(中略)そして、これらの心情と本能とによる認識の上にこそ理性は、よりかからなければならないのであり、理性のすべての議論はその基礎の上に立てられなければならないのである。(中略)だから、この無能力(下位原理に属する理性によって第一原理を理解するための心情を証明しようとすることの無益さのこと)は、すべてを判断しようとする理性をへりくだらせるのに役立つだけであって、まるでわれわれを教えることができるのは理性だけであるかのように考えて、われわれの確実さとわたりあうことには役立たないのである。(中略)
それだから、神から心情の直感によって宗教を与えられた者は、非常に幸福であり、また正当に納得させられているのである。(後略)』(中央公論社 世界の名著「パスカル」パンセ 第四章 断章282より抜粋)

デカルトは自らを客体化し、前提に結論を含むような論理としてどうかとも思える自己矛盾も恐れず、大胆な帰納推論によって神を証明しようとします。
それに対してパスカルは、信仰が直感によってのみ支えられえるものだと、30年ほど先んじて神の存在を証明しようとした、先輩のデカルトに対するアンチテーゼの意味を多分に含みながら直感によるキリスト信仰の唯一無二の価値を説いています。

しかしながら、背景として、彼らは同じカトリック旧教内において、デカルトは人間の意思の自由を認めるイエズス会に、パスカルは禁欲的なジャンセニウス派に属し、それぞれの論者としての立場が多いに関係している様なのです。
これを含めて考えると、彼らの相違は、16世紀はじめの宗教改革から始まった様々な宗派の権力争いの中での出来事、いわば「小さい」世界の話である側面と、その小さい世界であるがゆえに掘り下げるに至った人間の存在と神との関係をして発展し始める哲学の方法論の極大の相違であり、17世紀初頭の大きな成果と言えるかと思います。

☆☆

さて、はたしてこれらが、僕たちにどの様な力を与えてくれるか、というのが今後私が明らかにしなければいけないと考えている注目ポイントです。
科学の発展の結果としてほぼすべての人間が恩恵をこうむっていると言えるでしょうが、そうではなくて、直接、どうやったら哲学で腹が膨らむのかをレポートしていこうと思います。
通常、哲学に感心をお持ちの方は真面目で物事を深く考えるのが得意な方だと思いますが、そういう方は少数派なのかもしれません。

パスカルがこんなふうに言っています。
『(前略)それゆえに、(神を)疑うということは不幸である。しかし疑いのなかにいる場合に、必ず果たさなければならない義務は、求めるということである。したがって、疑いながらも求めないという人は、不幸であると同時に不正である。しかも、その人がそれで愉快にしていて、思い上がっているのだったら、こんな度外れた手合いを形容することばを持ち合わせていない。』(同 断章194の2)

ここで、(神を)とカッコ内を加えたのは私でして、これは場合によっては「自己」だったり「何か」でも構わないと考えています。

私はパスカルの言う「度外れた手合い」の代表のようなものですが、そのような者がせめて不正であることは避けよう、疑いながらも求めようとする時、その者達の為にミカエリとなる腹の足しの存在が見えているのが理想的です。それが何か、なのです。

☆☆☆

うすうす解って居りまして、なんといいますか

腹の足しにはなりませんね。調子いいことを書くのはやめにして、
アートオンブズマンで何度も発言している、社会全体の「アートリテラシー」の向上には、哲学が何らかの足掛かりになると考えています。

最初に書きました民主主義の原則のマイナーな方「少数意見の権利を擁護」するには、それを理解する能力が必要です。

アートというそもそも個人的な、パーソナルなものに対する理解力(私たちが提言する「アートリテラシー」)が、その力そのものであると私は考えています。(特許とれるものなら取りたいくらいの発見です。)

まだ西洋哲学は私の読んだ範囲ではキリスト神学から抜けきれていないようですが、ニーチェ以降の飛躍に期待し、次の時代へ参りたいと思います。

今回も長文にお付き合い下さいましてありがとうございます。
次回もまた良ければこちらでお会いできますように。

(2013/1/11)

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