少し前に、幸福論という本を書いた、アランという人が残した
『楽観主義は意思によるものであり、悲観主義は気分によるものである』
という言葉を見つけて、少し勇気が出た。
しかしこうしてしばらく時間が経ってみて、自分の中にある違和感は、寝返りをうつように、もう一度この言葉の据わりをみようとする。
そうして僕はこの場合の
『悲観の批判としての楽観』
に対しても批判を行いたい。
何故なら、より現実的に、生活において自分に課せているのは
『悲観のアンチとしての楽観』
では無く、いうなれば禅問答のような、
『批判を批判すること』
の結果が生み出す、楽観にも見える姿、だからである。
アンチテーゼは、最大でテーゼの客体化の役割を全うしはするが、本来的に、最大でもその仕事しかしない。故にそれは正しい批判とならずに、必然的に、正しい批判としてそれらを網羅するジンテーゼを必要としている。
とすると、、
批判を批判することによる楽観、それ以上の方法が、あるのだろうか。
って思うのです。
ま、こんな事を考えてたこと、忘れないように書いておきます。
(2014/10/20)