素晴らしい日々

以下は2014年の10月25日から、12月1日までの間に
SNSで実験として行って、アメブロで記録した『素晴らしい発言』の
まとめです。

これらの日日は、苦しくも美しい時間でした。
いつかまた、これを読む自分が何を感じるだろうと楽しみにしながら
ここに鍵の無い暗い部屋での熟成を、終わりなき実験の続きとしたいと思います。

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これから一日一回以上、素晴らしい発言を行い、それがどんな効果を発揮するのか実験する。

なんちゅうか、、

良いことがあると思ってないとか、言霊を信じないとかそういう理由で、批判というものの価値だけを呼びかけているわけではなく、

自分など及びも想像もつかない程の人為的不幸な境遇の人が、現実に沢山沢山たくさん、いるこのいま、僕はそれを置いといて、幸せな発言をすることに、とてつもなく罪のようなものを感じるのです。

だからしないようにしてきたのです。

しかし僕は、自分を変えることをこれからも求めていくのです。

だから皆さんには、能天気な発言にイライラさせたりすることも先にお許しをいただき、あくまでも批判の批判としての楽観を実行するとして、元来のバカを表現上のバカと自己同一させるのです。

そして、そこに何が生まれるのかを、身を持って体験する所存でありんす。

以上よろしくお願い申し上げます。

その一

素晴らしい。

素晴らしいと言う言葉。
そして何より、それを発言する瞬間、自分を許し解き放つ覚悟と責任を自覚する。
まずはここから。

その二

素晴らしい。
生きさせてもらっている。

その三

素晴らしい。
こんな自分にでも関わろうとしてくださる方々がいる幸せ。

その四

素晴らしい。
こんな自分を信じて疑いもなく一緒に居てくれる家族。

その五

素晴らしい。
この瞬間までに去ってしまった過去に、やはり関わってくれた人達の心意気。

その六

素晴らしい
時間をかければ かけるだけ 形になる 仕事の幸せ

その七

素晴らしい
そんなふうに 生きる意味を確認できる仕事であることの幸せ

その八
素晴らしい(作品が、じゃないよ。)

人に傷つき人にまた癒される これほど深く人を知ること
#短歌#tanka#jtanka

その九

素晴らしい
尊敬できる人が居るということ。

その十

素晴らしい
晴れた空 そよぐ風

あれ、誰かもう言ってたかな
でも本当だな

その十一

素晴らしい
陽のあたる町。穏やかなひと時。

詩にする気にもならない事実。

その十二

素晴らしい
演奏して楽しいと思えること。

相手の表現と自分の表現が全然違う視点に居て、その溝が埋まらないとしても、
音楽はそれを許容して

その距離に疎外感でなく、可能性を感じる時があって
これが人間の関係性というものなのかと思い当たる。

ここを、楽しい、と。
僅かな心の躍動として捕らえる楽しさ。

その十三

素晴らしい。

その日、イチニチ、自分の為に。そして人の為に。
一生懸命、疲れること。
みんなそうして生きてるんだろうな、と思って過ごすこと。

その十四

素晴らしい

言葉で言い表すことができない、ありがとう、を
人生において、何度か、思えること。

その十五

素晴らしい

歳をかさねること。

若い時に比べて、
いろんなことがわかる。
叫びを意思でコントロールできる。
話を、聞いて話せる。
美味いもんがうまい。
嫌いなこと、嫌いな人と組みあってみようと思える。

その十六

素晴らしい

子供がいること。それは自分も子供だったことがメイン。
あの人もあのばあさんもじいさんもその母の子よじじい愛しや

その十七

素晴らしい。
とても一筋縄では行かない、難題があること。

解こうがが放っておこうが任されてもいるので、
考え方によっては楽しみだったりする、大きな問題。

その十八

素晴らしい

歌うこと。
声で、楽器で、色彩で、身体で、言葉で、、沈黙で、。

その十九

素晴らしい
役に立ちたいと思う気持ち。

その二十

素晴らしい
無闇に素晴らしいと言わないこと。

その二十一(投稿/素晴らしい日。より)

素晴らしい。

音楽の楽しさを知るお客様に、そして音楽が好きなすべての人に、有難う。

その二十二

素晴らしい
長い時間をかけて、理想に近づこうとすること
長い時間を変化しながら、理想を探し続けること

その二十三

素晴らしい
飾らない意思。

その二十四

素晴らしい
諦めない意思。当たり前かもしれませんが

その二十五

素晴らしい
闘うこと。

殺さなくてすむためにたたかうこと。
人を自然を守るためにたたかうこと。
向上し続けるためにたたかうこと。

その二十六

素晴らしい
励ますこと。

その二十七

素晴らしい
一生懸命準備する時間。

その二十八

素晴らしい
大きな視野と緻密な作りの共存。

カモンカモンカモンカモン

その二十九

素晴らしい
そうしかできないからそうなってること。

その三十

素晴らしい
待つこと。

その三十一

素晴らしい。
隠喩で、本当に新しいことを知ること。

その三十二

素晴らしい
恋心。

その三十三(友人による作品のため欠番)

その三十四

素晴らしい

素晴らしい事ってどんなことだろ、と思いながら生活すること。

有る意味究極かもしれない。
どんなことが起こるだろうと疑心暗鬼もありながら、
とにかく言ってみよう、とボチボチやってきた『素晴らしい発言』でした。

外から、僕が変わったとは見えないだろうし、
外から発言によって何か特別なことを得ることは無かったと思いますが、
自分への宿題としては、このテーマは、あるべきものでした。

自分が何かの価値を判断出来る状態ではないと言い聞かせながら、
自分を測らずにいられません。そしてそれが矛盾であるならば、
矛盾も必然であると理解もしながら、
尚、今一度、価値判断を行い、それを修正し、また苦しむのですが、

素晴らしい発言は、批判を含めれば皮肉になります。
それはいつもこれまでやってきたことなので、
別の表現を経験できた部分もあります。

これを区切りにして、素晴らしい発言は終わりにします。

そして、来年からこの経験を活かした音楽作りに、力を注ぎたいと思います。

素晴らしい皆様の生活に、幸多かれ。

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番外編(素晴らしい発言の日々の間に、一応の自己分析行っている)

世界はしんしさくらく、混沌としているものだ。

最近、素晴らしいものはないかと探す習慣が出来始めて
混沌を素晴らしいなどと雑な事を言わないのであれば、
混沌の中からあることを探り当てる、またはあることとあることを包括する
なにか新しい視点に立とうとしている自分に気づく。

ここでその十七、と書き始めるのは簡単
しかし一歩進んで、

新しい視点の何が素晴らしいのか、構造と効果と目的から考えた。

☆ 先ず、構造。
発言のその主体である自分について、考える。

仮に、自分とは

自分 =

①自分が自分と認識出来ている(既知の)部分 (正しい認識のつもりの部分)

②自分の知らない(未知の)自分(知ってるつもりで正しく認識してない部分も含む)のうち、他人が知ってる自分

③誰も知らない自分

として、①は僕としてはあまり問題ではない。何故か?=面白くないことだから。
②と③の、自分に出会えるかどうか、これが重要である。
その境界は、面白いかどうか、で十分(僕は)区別できる。

新しい視点を持つまでは自分が知らない部分なのが、新しい視点によって既知の部分になるわけだ。

しかし視野を拡げるのは既知の自分を肯定するどころか否定につながりかねないから、新しい視点の発見とは、一見、弱体化の兆しでもある。

ここまでは、『素晴らしい』発言の主観たる自分の構造で、
その効果は、実は二種類ある。

☆ その効果は、有益かどうか、で二分されると考える。

新しい視点は有益であるのか。

自分だけに限ってもその新しい視点なるものは、実は常に有益とは限らない。

僕がよく引用する、ゲーテの言葉に
「行動には良心は伴わない。行動は常に没良心である。」
というのがある。

新しい視点、それ自体、良心
(以下Wikipediaより抜粋:良心(りょうしん)とは、自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのことである。英語ではconscienceと表記され、その語源には日本語のような「良」を意味する部分はない 。従って、英語では、good conscience (日本語では、”良い良心”にあたる)や、 evil conscience (日本語では、”邪悪な良心”にあたる)という表現が存在する。)
が求めるものであって、良心なきもの(善悪を測る心の動きが行動にとっては邪魔だと考えるもの)は新しい視点を求める行動自体を起こさない。

ゲーテは、視野の狭さこそ、行動の力の源だといってるのである。

行動するために必要なものは新しい視点でなく、それが儲け話(生きる知恵)であることであり、その意味では、有益とは言えないことになる。

新しい視点が、弱さの象徴、または無益である場合、極限的な状況を除いて、人は行動しない。変化しない。
「そうは思わない」、「自分とは違う」となるのである。

ここまでをまとめると

『素晴らしい』発言は(効果を考えると)「強さに寄り添う(弱体化を想起させず)」、「有益なこと(生きる知恵)」の側面が必要である。

簡単に言うと、『素晴らしい』なんて言わずに、
「これいいよー。得するよ」と言えば事は足りることになる。

コマーシャルの基本原理とおなじである。

では、僕はそれがしたいのか。

☆ 最後に目的。

アート、とは何かを考えると、僕は先の、良心(善悪を測る心の動き)と良心の出会いによって互いを強化することであると考える。

良心と良心の出会いは、絵画、音楽、映像、その他の芸術や、現実において起こりうる。
起こりうるが、約束されてはいない。
起こり得たとしても等価交換されない。

僕は、音楽に携わりつつ、年齢やジャンルの好みなどの境界を超えて出会いを求めるという欲の深さのために、ある時から詩や短歌などをやり始め、
最近では作品としてではなく、『素晴らしい』発言をするだけという目的不明の、行動なのか弱体化なのかわからんまま実験をし始めた。

『素晴らしい』発言は、良心をもって発言し、良心との出会いを求める。
それに加えて、新しい視点で、無益であるのに強さを想起させることを目標とする。

こうした矛盾しているはずのことが、何故かアートと、笑いの一部のジャンルでは可能になっていると考えている。

これを、ただの『発言』でやっていくのだ。

最初に、新しい視点の素晴らしさを考える意図だったのが、
素晴らしい発言の意図について、になってしまったが掘り下げれば当然だった。

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