白雪はちひさきころのおもひでをまぶたの奥でひとりおもひし

感謝とは自分が言った言霊が自分に届いてやっと知ること

死ぬまでに、だからこう思う。と言ってやる心粋こそ柔し優しや

☆2017/01/16あとがき

去年は、三つしか詠まなかったようだ。

短歌を愛し、とプロフィールに書いてるくらいなのでもう少しやるべきなのかと思ってもみるが、なにせ楽器の練習に時間を割いてきたこの二、三年なので、短歌のことを思い浮かべることも、誰かの作品で想いを馳せることも最近はゼロに近い。

そういう物理的選択に加え、座右の銘「かろみ」について注力していると、短歌より俳句、もしくは山頭火のような自由律のものこそかろみを感じるところがあり、自分が変化していることから短歌の時代ではなくなってきていると考えている。

かといって俳句はより制約を感じるため、残るは自由律、となるがそうなると極めて経験値を要する気がする。

先生と思しき山頭火の詩は、たまに、お、スバラシ!と思うのがあるが、酒が題材になってるものがおおくて、あれがいただけない。

ともすると、ジャズだといえば「イエーイ」だとかブルースだとバーボンウイスキーだとかアメリカンロックならラッキーストライクだとか、そんな感じの「定型的な必要悪」を借りてきたことを内緒に売りものにして、自分をポップに魅せようとしがちな芸術オタクも散在するが、僕はそれほどのオタコにはなりたくない。

山頭火のちょいワルイメージで自分をコマーシャルしたくないのである。

山頭火以外にも、自由律俳句をやっている詩人が沢山居るのだろうが、

それらを探し、掘り出して読む程の気力と時間があれば、先ず練習、その次に電子工作、なのである。

今の僕はそうである。

なので、短歌人生、一区切りとして締めの一首。

またいつか詠むミソヒトは上手くなく 侘び寂びもなく觀る人も無く

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