「ツァラトゥストラ」から松任谷由実へ

こんにちは、皆様いかがお過ごしでしょう。

ちょうど夏休みが始まり、朝の6時からラジオ体操に出かける子供達は、その後の用事の終わった午前中、「まだ9時だ!」と嘆き声をあげながら思い思い好きなように小さな家の中で心を寄り道させて、それぞれの中途半端に興じています。

そんななか、大津でのイジメに起因することは間違いないだろうと思われる中学生の死がクローズアップされています。

死んだ彼の、当時の気持ちを思うとやりきれません。
また、彼だけで無く、虐待を受けて死んだ小さい子供たち、
今も受けている子がいるかもしれません。

そして世界に沢山、現実にいる、虐待や戦争などで、親の愛情を受けられない子供たち。

仮に死なずに済んだとしても、彼らは自らの犠牲を乗り越え、得られなかった愛情量以上の愛情を次の社会に還元していくことができるでしょうか。
僕らはそれを彼らに求める権利がないのにもかかわらず、大人になる義務だけを彼らは将来手に入れます。

これは「ラヴ リサイクル」システムが出来ていないということです。
今僕が作った言葉ですが、面白いのでこのタイトルで一曲つくることにします。

事件の法的な判断は今後を見守るとして、
いかにして愛情を次の世代に還元していくのかが、その国の知性だと思えてなりません。
そのなかで功利的な選択は、愛情を切り捨てるのと同じです。

中国は目を見張る発展を遂げている中、その場しのぎの製品を市場に出して、著作権や環境破壊を省みないかのような経済活動をしているのが目につく事もあります。
それはメイドインチャイナの極一部なのでしょうが、
一部だったとしてもそんな事では国として、人として、ダメなんじゃないのかと思ったりします。

では日本はどうかと考えると、これが実はあまり変わりがないと思います。
安全性が確認出来たという政府の発表が、信用できるとは思えないですが、事実かどうかよりも報告に至る手順を踏んでいないと思います。判断する以前の問題です。
にもかかわらず、動き始めた日本の原子炉。

国の方向性を決めるところで、功利的な判断が優位に立っていると考えられてもしょうがない事です。

こういう話をしはじめると、冗談で次の選挙に出るのかと聞かれる始末ですが、
僕にできる事は何かを考え、子供たちの無料の音楽や絵画の教室を開くという答えがでています。
小さい子供たちに感受性を育む機会、答えのあらかじめ決まった予定調和メタファーにたいして卑劣であると素直に感じる感受性を次世代のひとに期待したいのです。

彼らに、強者の嘘を見破る力を育むことが、将来の僕たちが楽天的な功利主義から、少し抜け出せる誠実な軌道修正だとおもいます。

体力と気力がある間に、「ラヴ リサイクル」、

なんとかしたいです。

メタファー、て何なの?

と妻に、このブログを読んでもらう度に聞かれます。
メタファーとは言語のうえで使われる暗喩の事ですが、僕は広い解釈をしています。

音楽には歌詞のないものもあります。その時、言語情報はタイトルだけですが、

リスナーの心のなかでは、
タイトルのイメージとその音楽とのギャップを埋めるような作業があります。

イメージ通りの曲もあれば、何か不思議だけどわかる気がするとか、初めは分からなかったけど最近わかってきたとか、そういうこともあります。

言わばタイトルと音のコラボレーションです。

「概念メタファー」という言葉があるのですが、こうした音楽や、その他の芸術全般に、この概念メタファーが働いているのだということを僕は前提として考えています。

タイトルイメージと、音楽が感じさせる世界観・風土との距離感が遠ければ、それだけ納得が行かないという人が増えるでしょうし、
近ければ、納得は行くが、新しい発見、いわゆる感動は少ないのです。

こうして言語を超えた、タイトルと音、だけでなく、

ピアノ音とベース音、音と沈黙、手と瞳、人と人、赤と黒、知と愛、アリとキリギリス、ロンドンとパリ、酒とタバコと男と女、、とこう言った具合にメタファーが地球上で働きまくっているのです。

前回のブログにも書きましたが、芸術の核心はこのメタファーにあると考えています。

☆☆

今回の読書会ではニーチェの「ツァラトゥストラ」を読みました。

次回の読書会は、8月27日の月曜日、19:00から兵庫県川西市のアートオンブズマン事務所にて、題材は「旧約聖書(創世記、出エジプト記、イザヤ書、伝道の書)」並びに「新約聖書(マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書、ローマ書、ピレモン書)」を取り上げます。尚、読書会は、あくまで非宗教的に行います。ご連絡は

artombudsman@gmail.com
まで。

ニーチェはツァラトゥストラで「神は死んだ」と言っていますが、
キリスト信者ではない僕でも、ニーチェを含め18世紀以降の哲学が神から距離を置き始めた事を少しでも追体験できるようにする為に、聖書を読んでいきたいと思います。

さて、ニーチェをいつも通りWikipediaから簡単に紹介しますと

『フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 – 1900年8月25日)は、ドイツの哲学者・古典文献学者。
ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通うが、ここで音楽と国語の優れた才能を認められてドイツ屈指の名門校プフォルター学院に特待生として入学、初めて田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。
1858年から1864年まで古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。また詩の執筆や作曲を手がけてみたり、パウル・ドイッセン(Paul Deussen)と友人になったりしたのもこの学校時代のことである。
1864年にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで神学と古典文献学を学び始める。大学在学中にニーチェは友人ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わって高歌放吟に明け暮れ、最初の学期を終えたころには信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で牧師の息子が信仰を放棄するというのはスキャンダルでさえある。ましてや夫を亡くした母にとっては一家の一大事であった)。』

またニーチェを語る上で重要人物としてリヒャルトワーグナーがいるようで、
24歳のニーチェが21歳上の、「栄光を得ていたがまだそれによって損なわれていない、詩人で作曲家で政論家で哲学者で革命家でもあり国王のお気に入りでもあった(アレヴィー、ニーチェ伝より)」ワーグナーの理解者となり、のちに彼を強烈な攻撃対象として行きます。

☆☆☆

さてニーチェはこの本で
ツァラトゥストラという男が「超人」になるまでを神話のように描いています。

ニーチェは周到に、全人類が漏れなく、ツァラトゥストラの後を歩むことになり、全ての精神が幸せを得る為の方法を書いたのだと感じました。

今回の僕の読後感想のピークが、ここで急に参りますが、
僕はビックリするほど同じ事を考えていました。
勿論新しい考えを発見することもありましたし、「超人」などとすることで、POPさを興味の条件にいれる、受け身なメタファー受信者、一般的観客にはすでに興味の対象外になるやり方には警戒心も覚えました。

すでにこの僕の活動さえ、その過小なPOPさが気になるのですから、
僕なら超人という言葉は使わないかもしれないと思いながら読んでいました。

しかしそれにしてもあまりに上手く言ってくれてるなあ、僕の為に、僕たちのために、と思う事がしばしばでした。

だから、読みながら、次のように何度も考えました。

即ち、ではこの本を、読む人が沢山いて、理解した人が沢山居るのなら、
僕の活動はすでに必要ではないし、

そう沢山は居ないから、そして理解されていない為にこのような社会状況である訳ですから、

まず読んでもらおう。その前に興味を持ってもらおう。

どうしたら読む気になる!読んで下さいと言って読んでくれるわけでもなく、

「ツァラくん」とか、ゆるいオジサンキャラクターでもつくって、カツラの着せ替えGoodsを販売するのはHipだろうか、などとほくそ笑みながら読んでいたものですから、
数十行に渡って読み返すのもザァラでございました。

しかし、本当に、どうしたらいいだろう。
多分、残念ながら、過剰なPOPさが必要なのだろうとおもいます。
そんな愚劣を、ニーチェは望んでいないでしょうが。

こんなことを考えていました。

☆☆☆☆

ツァラトゥストラでは、タイトルから最後までニーチェは沢山のメタファーを使っています。

メタファーばっかりです。
僕も、半分くらいは解説があって始めて意味がわかる始末ですから、崇高なる物語を前に、メタファー受信勉強はこれからもまだまだ必要だと痛感しました。

解説が必要なほど、詩的であり、その真意を読み取るのが難しいツァラトゥストラですが、
ニーチェがメタファーを駆使したのは、上質の文章を心がけたり、評価を高めるためなのではないはずです。
メタファーを使うのは、自分が正しいと信じる論理、気持ちいいと感じる感覚、こういった主観的な情報を、本質的に読者と共有するための、唯一の方法だから、なのです。

そして、信じること、気持ちがいいことを伝えたい感情は何から来るかと言えば、
それは愛であるといえないでしょうか。

ニーチェは溢れんばかりの人間への愛情を持って、厳しい道と、高い場所を示したのは間違いないとおもいます。

そこで僕は、愛はメタファーの中で最も重要な情報である、と仮説を立てるのです。

愛は常にメタファーとして、受信者の準備状態に関わりなく発信される。
しかし受信者は、彼の愛情を受けた経験の乏しさや、功利的判断や、イデオロギーなどによってもフィルタリングされ、受信者の元へ届く愛は何十分の一になるのが常なのです。

あとは、受信者の準備を促進するのが、僕の目標であり、

【ラブリサイクルのシステムは、メタファーをうまく送受信しあう社会に成立する】

と僕が世界で最初に宣言して、先ずは世界の中心である川西から突撃しましょう。

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ところで、松任谷由実の「やさしさに包まれたなら」という曲がありますが、

「カーテンを開いて 静かな微笑みの
やさしさに包まれたならきっと
目に映るすべてのことはメッセージ」

これが、メタファーと愛の関係を実感できる優れた詩の一つでしょう。
しかもPOPです。

しかしPOPは、宿命として限界を内包しています。何故なら、安心させることで受信者がすでに手にしている枠から、その外側にある愛の存在に気付かせないのですから。

気付かせない事が安心なのですから。
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手始めに、ニーチェのメタファーをすべて、愚劣なる翻訳、直喩に変換するというのはどうだろうかと、
それに加えて、カツラのツァラさんを本気で考え出したい衝動に打ち震えるているところです。

数年かかる大仕事になるでしょうから、いまは気持ちだけ温めつつ、ニーチェを産んだ聖書から、引き続き17世紀から現代までの西洋哲学を追いかけ、また東洋の古典を絡めながら、メタファーを摘む練習をすることにします。

そしていつか、理不尽な戦争と究極の悲しき殺人を、一つでも減らし、ギリギリのところでも誰かを救うことができるきっかけになる活動をして行こうと思います。

どうも本日も長文にお付き合い下さいまして有難うございます。

次回の聖書についての読書会も、ご興味あればお気軽に
ご連絡を頂きました上で、宜しければご参加下さいませ。

(2012/7/24 笠松)