こんにちは、2012年の3/23。本日の大阪は雨です。
今雨の中、小学4年と2年の子供達が元気に通信簿を持って帰ってきました。
一年間楽しかった?と聞くと、二人ともうん、と応える様子を見て
楽しい一年だったのが何となく分かりました。
次男の担任は今年で定年を迎えられるベテランの男の先生で、
先生は、よく生徒たちの家を訪問され、僕が昼間に家にいる事が多いもので
今まで経験無いほど、担任の先生のお顔をよく拝見しました。
この一年間、次男の方は学校の帰りが長男よりも遅い事がよくありました。
初めは道草かと思い少し心配もしたのですが、まどろっこしい次男の話を諦めずに聞いてみると
放課後に先生は皆によく話をする、特に火曜と金曜はいつも怒るのだ、とのことでした。
怒る、というのは、僕の想像ではおそらく「真面目な話をする」程度の事だと思うのですが、
少し幼い次男には、怒ってるというように映るところがあるようです。
僕が真面目に話をするといつも怒られてる顔をしますから、それと同じだと思います。
僕には、先生が定年まで現場にいるということがどういう事かわかっていないかもしれませんが、
担任を受け持って貰った事がない長男まで担任になって欲しいというこの先生が、
教師生活の最後の一年だけでも次男の担任になって頂けたのはとても嬉しい事だなあと、
終業式の日になってやっと気づいたのでした。
——–V.E.フランクル「夜と霧」(みすず書房)を読んで——-
僕がこの本を知ったのはもう20年ほど前になるかと思います。
その頃僕は楽器練習に励む日々の中、
表現とは、という芸術家を志す者なら誰でも持つであろう謎を解くために、
ジャーナリズムという、芸術を志す者が近年は余り感心を持たない物に、手掛かりを探していました。
JAZZの即興演奏は、何故、何のために何を美的基準として、個人に任されているのだろう。
音楽と他の芸術とは、何が同じで何が違うのだろう。
そしてそれがどの様に人のためになるのだろう。
人のためにならなければ意味がないのか。
人のため、とはなんだ。自分のためでないと、それは嘘ではないか。
そのとき僕はこんな事を考えていたわけですが、
これらの謎に対する僕の具体的な答えは出来る事ならまた別に書くとして、
自分が感動する事とは何かを知る事ができれば、それが表現とは何かを知る、
自分なりの手掛かりになる事は分かりました。
キースジャレットの即興演奏に道標を感じながら、僕はあるジャーナリストの著作を読みあさって、
キースジャレットの音と自分の感動の輪郭を、
理想である普遍的な音と自分の普遍的な心の中心とを、
リアリティを持ってつなげる事が出来る、これから始める「行先未定ナビなし旅行」の、
最短ルート探しに明け暮れたのでした。
そんな中、アウシュビッツ捕虜収容所での体験記を書いたこの本を知りました。
確か、買った記憶はあるのです。
しかし今でもそうですが、読もうと思って読めていない本が常に何冊もある状態でしたし、
その頃に読んだ「南京大虐殺」についての本によって、無知で無経験な自分の「悪」の受け皿が一杯になってしまったものですから、
「夜と霧」が読めずに20代を過ごして、
幾つかの引っ越しで、整理しているうちに売ってしまったようなのでした。
僕は最近、大阪の布施にある本当に美味しいオーガニックな料理をだす居酒屋のマスターの紹介で
「ペラゴス」という読書会に参加し始めたのですが、
その次回の題材がこの「夜と霧」でしたので、中古書籍をネットで購入し、
精神的に以前より余裕ができた今、
その暗い内容を嫌でも想起させる、
女性と子供が不安げに、両手挙げて、兵士に銃を向けられ指示、整理される写真の載った表紙から、
頁を開き進み始めたのでした。
フランクルは、この経験ののちにウィーン大学で心理学の教授になる人で、
人間に、自分自身に対する深い洞察を持ちながら、
彼の経験した事、
人間が人間に与えうる「最大に非人間的な」極限状態のある一つの形を、
優しく誠実な言葉遣いで、書き綴って行きます。
フランクルは、全9章のうち1章の最後に、この体験を心理学的に、次の3つの段階に大別できるとしています。
1部 収容所に収容される段階
2部 本来の収容所生活の段階
3部 収容所からの釈放及び解放に至る段階
詩人であり作家であり科学者、政治家でもあったヨハン•ヴォルフガング•フォン•ゲーテという有名な偉人の言葉に
行動するものはつねに没良心である。省察するもの以外、誰も良心がない。
(ゲーテ格言集 新潮文庫)
というのがあります。
これが本当なら、僕が探してきた「愛から芸術までの往復ツアー」の旅チケットは、
旅行会社の企画倒れにて実現未定、発売自体していなかった、ということになります。
この言葉をTwitterで知った時に
「あれ、おかしいな、そんなはずないけど、核心のようなものも感じるぞ、アンレマ」と思いました。
行動は「芸術」に置き換え、良心は「愛」(キリスト教的3つの愛のうち、これはアガペー(自分に欠けているもの(エロース)や、自分を喜ばせるもの(フィリア)といった「価値」に規定されることはなく、むしろ逆に、愛することでその「価値」を決定するようなもの。)にあたると思います)
に置き換え、この言葉を信頼すると、芸術に愛は持ち込めないことになるではないですか。
音は、音楽は、芸術は、それのみで存在するのか。
これがもし本当なら、愛と芸術の地続きのコースを探す僕にとって芸術は、
僕が捉えている芸術の中心は、他の人と永遠に共有出来ない物なのかもしれない。
僕の目の前で花を咲かせ、根付いている実りを見せる木々は、
地面の下で根の拡がりを持たず、途切れて、別の人間の前で別の花を咲かせるのみなのか。
こうして解決能力不足の問題が人生の後半にきて現れ、
やろうと思っていたことの根拠に疑いを持つべきか悩みかけた矢先、フランクルの文章に、
思いもかけず答えを見つけることになりました。
彼は最後の段階を説明している8,9章で、僕にとって印象深い幾つかの発見を報告しています。
それは、
◯人の苦悩と死が無意味なのではないことを知ることは、人の生にとって究極の意味となること。
◯あらゆる人間の中で善と悪とを分かつ亀裂は、人間の最も深い所まで達すること。
◯極限状態の人間が、行動と、良心を併せ持つことがありえること。
この3つです。
この3つの報告は、先に書いた「行先未定ナビなし旅行」にとっての”地球の歩き方”になりそうなのです。
1つ目の報告は、旅のルートを暗示します。
あなたは苦悩していますか。それであなたがいる意味があるのです、
あなたが誰かの代わりに苦悩する事で、誰かが生きる事が出来るのですから。
あなたはいつか死ぬでしょう、しかし今はあなたが大切に思う人のために生きてください。
旅では、この報告を芸術によって伝えるという役割が担えられると考えられます。
フランクルがこの体験記を書いた目的の一つもおそらくこれではないかと考えます。
2つ目の報告は、旅のやり方の注意事項です。
旅では、綺麗なものばかりを見ていてはいけません。
みにくいもの、悪を、しかも自分の立っている影に隠れて見逃してしまっている
見つけにくい悪こそ、存在を見失わないようにしなければいけません。
自らにある善と悪の境界線をまたぎながら、
まるでエスカレーターの上行と下降にそれぞれ左足と右足を乗せて最低階までおりて行くのです。
危ないですね。
で何処かにたどり着く事ができれば、そこが実は旅の終わりかも、あるいは始まりかもしれません。
しかし、自らの深淵なるその境界の底を見たものだけに与えられる鍵、その鍵を持つものだけが開け得る良心の部屋の扉、人間の普遍性に立脚した良心が芸術の価値を裏付けるものなのは想像するに難くなく、
その旅で得られる最高の宝であるとも言えます。
3つ目の報告は、旅の保証をするものです。
この旅は、前人未踏ではないということです。
ゲーテが残した
「行動するものはつねに没良心である。省察するもの以外、誰も良心がない。」
という言葉は、一般的に核心をついているようにも思えますが、
フランクルは、自らの体験で、それに例外がある事を証明しています。
ゲーテは、分かっていて、ひょっとすると皮肉を言ったのかもしれないですね。
行動と良心は矛盾するものではない、という事実は、
僕にとって非常に大きな手掛かり、足掛かりになりました。
芸術(行動)は愛(良心)を、含み得る。
良心を信頼し、芸術を信頼し、それらを信頼する人達を信頼する根拠を得た思いです。
次男の担任の先生は、良心を持って行動していた、数少ない人のひとりなのかもしれないと思います。
先生、長い間のお仕事、お疲れ様でした。そして有難うございました。
そして長文になりましたが、ここまでお読み頂けてとても嬉しいです。
お付き合い有難うございました。
今後ともどうぞ宜しくお願いします。