勝手に、貧困問題と芸術の価値観について(進む男性化)

普段こちらに、子供の貧困を無くそうという趣旨のメーリングリストからの情報を主観的に選んで載せてるものとしては、その貧困問題と自分の音楽の関連性を感じてのことであることを、はっきりしておかなければいけない。

「貧困と音楽との関係は、無い」と、考えがちなのではないかという心配が前からあったので。

今回は、それらにどのように因果関係が成立するのか、以下に説明を、やはり主観的に、していこうとおもう。


昨今の貧困世帯は、シングルマザーの家庭に多いことがわかってきている(数字で書くと説得力が向上するが、ここではそれは専門家に任せようとおもう。説得すること自体、今から書こうとしている批判の対象だからである。いま求めることは、共感である)。
シングルマザーが発生する原因は、離婚であることは明白である。

ではその原因は何かということになる。

それは勿論、直接的原因は家庭によりけりで一概には言えないけれど、共通する部分があると考えている。

その共通するものとは、「男性的」な価値観である。

(男性的とは何か、を定義することはまた難しいが、ここではあえて「力」「論理」を上げておこう。)

強い女性とは、男性的な「価値観」を身につけた人達で、

家庭においても、社会と同じように価値観の充足という意味で反意の「女性的」価値観(例えば「感情」「共感」としておく)が必要であるが、

彼女達が家庭においても「男性的」価値観を持ち込んで生活する、とそこに、男性の「男性的」価値観が待ち受けているとすれば、

その家庭には女性的価値観である「共感」が足りないのである。男性的価値観ばかりが飽和して、女性的価値観がどこにもないのである。

さて、どちらかが、「共感」をする役割を果たせばいいのかと言うと、そうではなくて、共感は共に感ずるの意味だから、文字通り両方が共感しなければ成り立たない。

要するに人間は、男性的価値観と女性的価値観の両方を、自己の中で認めなければ充足しないのである。

(心理学者のユングが言う男性の中の女性、男性の中の女性であるアニマ、アニムスもだいたいそのことを言ってるのだろう)

男性が男性的で女性も男性的であろうとする文化の大きな原因は、あまりに大雑把であるが、資本、である。が、それはここでは糾弾しない。

してもしょうがない。その力も責任も興味も、ない。

しかし、また原因の一つである芸術に関して僕には、力は(男性的ではないと言う意味においても、能力という意味でも)無いが、責任と興味がある。
芸術作品にも数あれど、音楽というジャンルにおいては、特に西洋社会(日本も含めて)を席巻する軽音楽の価値観につきましては、非常に男性的価値観がハバを効かせている。

女性的価値観とした「共感」が、男性的価値観である「力」と「論理」によって支配されている。

その姿は、もはや共感ではなく、「従属」であるように見える。

資本が、力と論理を音商品にして、従属を共感とはきちがえた市民から金を巻き上げる、というのが今の世の中の一部のシステムであるが、

これを本望であるかのように、音楽家自らその歯車になっていることによって、このシステムは支えられ、強化され、かくしてリスナーはそれこそ至上の価値と思い込むことにより、

社会の最小単位である家庭に、現在のように「力」と「従属」が氾濫するのである。
音楽家の責任は、重い。

(男性的価値観が、不要だと書いていないことは勿論わかっていただけるだろうか。女性的価値観も同じくらい重要だと書いているのである。)