『夢の扉』

 

情景1 「ここにあるもの」

 

白い扉が、突然この白樺の林の中に現れていた。

白樺の白にはわずかに青が混ざっていたが、まるで対照的に白い扉については白い事と木製である事以外わからなかった。そしてわからないことが、かえってその扉の存在を私に印象付けた。

適度な労力の見返りとしての満足を得るような日常が白い木製の扉の向こう側にあるのか、それとも私はそんな日々と決別したのか。
何れにせよ、扉の向こうはたいした場所ではないのだ。今と、ほとんど変わらないのだろう。
私は悟ったような考えで自分の注意をそらせた。
所詮は日常なのだ。何かの変化、例えば怖かったものが怖くなくなるような平凡な変化を含んだ、日常と日常をつなぐ扉だ。
そう思うと、突然の理不尽よりもその扉が平凡であるが故に私はその理不尽を許してしまうのだった。

考えてみると、これまで私は結局のところ、あの白い扉を開け、その先に歩き出す為に生きてきたのではないだろうか。
しかしこの瞬間まで、扉の存在を確かめる事も扉を開ける勇気もなかったし、開けるのを許されるための条件を満たす事も出来なかったが、それは単なる私の怠慢ではない。

そしてそれを証明する事自体が私の「生きる」だったことがわかったと同時にあの扉が現れたのであるから、人生の目的はそれが無意味であると理解するという結末と同時に達成される事実も、止むに止まれぬ衝動が内包していた一つのストレスであったろう。

そのストレスを、私はいつからか確実に捉えていたし、また諦めてもいた。しかしだからといって私が、人間を深く理解出来ていた訳でも、人に愛される方法を持っていたわけでもない。

理解することとはなにかを、今この瞬間まで、知らなかったのだから。

 

情景2「許すべきもの」

 

私は、これといった信心深さも持たず、また抑える必要があるほどの強い欲求も感じ得ず、夕暮れを探しながら過ごすような枯れた生を過ごして来た。
さほど強くもない興味から新約と旧約と大拙をかいつまんで読み捨て、大方落ち着いた所で栞が止まっているだけの無宗教な生活であった。

その私が考える「名もなき神」は、結局、自らの責任と無責任において、森羅万象なにものをも許すであろうという事が、私には理解出来て居た。

神は、私が行ってきた事すべてと、私が許せなかった事すべてと、私が許した事すべてを、許すだろう。

私の知る、そして知らぬすべてを「名もなき神」が許すのであれば、私も許してしまえば良いのである。簡単である。神に従えばいいのだから。

かくして私はすべてを許した瞬間に、神となった。

いやいや、許すだけでは神にはならないだろう。まだ、あと何かが足りないのだ。
以前から私には、論理が飛躍する所があったのだ。
妹にもよく叱られたものだ。

「お兄ちゃん、あんまり飛躍しすぎちゃだめよ、」と。

妹は美しかった。身内ではあるが他人でもあるので貸し借り無しの評価のつもりである。

声にもその彼女の性格の良さが聞こえた。
彼女は歌を歌ったが、美の最後の関門で、絶対美との契約を拒み、その声に彼女の肉体を通して土の響きを与える事を選び不合格となり、その関門を通る事は出来なかった。

私は妹からあとでその話を聞き、美の最後の関門でさえ、経済を優先するのかと憤ったが、今またこの瞬間に本当の意味を知った。

おそらくその関門は通らなかったことが合格だったのだろう。
それに彼女は気づいているだろうか。

今、その彼女が私のそばで泣いているようだ。

どうした、なぜ泣いているのか。
お前は合格したんだぞ、私は晴れがましい気持ちで彼女の肩を抱こうとした。

何故か、私の手は動かなかった。

まあいい、またあとで言い聞かせるとしよう。
お前は美しくて、性格もよくて、いつもお兄ちゃんの自慢だったんだぞ。
幸せに暮らすのだぞ、
お兄ちゃんは今、許す事を知ったのだ。
なんでも許してしまえばいいんだよ、そうすればそれはもう、神様とおんなじなんだ、そうだろ?
今、そのことばかり考えてたんだ。
飛躍していないんだよ、大丈夫。
おまえもわかる時がくるさ。

どっちにしても、お前は良いやつだから、大丈夫。
それはわかるかい

聞こえないのかい、僕の声は

これだけは、あとで、伝えよう。

ありがとう

 

情景 3 「闘えるもの」

 

気がつくと辺りは濃い霧に包まれ、私は私の位置と目標物を見失って、残り少ない食料と水、シュラフを背中に、頭にはヘッドライトのついた軽量のヘルメットと、そして右手にはまだ撃った事のない銃。そしてその倍もある大きなクロマチックハーモニカを左足のズボンの外側についてあるポケットに備え持って、何度も、特に前後を何度も確認しながら、おそらく、前に歩いていた。

数メートルの視界の中を、移動するごとに目標を選択し直した。
目標がない場合はどこに行こうが迷うという事自体がそもそも無い事に気づきながらも尚、迷わないように歩く自分に、

「コレコソ闘ヒダ」と言い聞かせていた。

言い聞かせることが前進よりも行動の中心になりつつあった頃、少し霧の切れ間がきたのか、視野は広がり、空からは私を含めた白樺の木々数本を照らす光が、かすかに漏れ、落ちた。

この場所を、私は観た事があった。

辺りの木々は次第に名の知らぬ低木にとって変わり、サバンナの焼け付く陽光が顔の表面を体温以上に温めていた。
肺を傷める砂埃を一時的にでも避けるのに最低限必要な壁とカウンターと酒だけ整えたバーには、目が慣れてくると懐かしいような顔が見えた。

ほとんどの大人は私がそこに居ることを気にも留めないのか、関わることを避けようとしているのか、それとも私がここに居ないのか、振り向いたりする様子もなく過ごしていた。

一人、見覚えのある少年が、茶色い瞳を瞬き忘れたように私にむけていた。
私はその子に話しかけた。

「お父さんとお母さんは、元気なのかい?」

少年は私が話しかけると視線をそらして、下を向いていた小さい女の子の手を取り、外へ出て行ってしまった。
小さな二人が、戦場ヶ原と呼ばれるサバンナの、休戦地区に身を寄せていた。

二人の小さな兄妹は何かを憎んでいるだろうか。そして、それを憎まなくていいと、彼らにいう権利が誰にあるだろう。

ふと、外からハーモニカの子供らしいメロディが聞こえてきた。

音につられて辿って行くと、少年が傾き始めた陽光に向かって、何かを吹いていた。
彼のハーモニカは二人の未来を、沈みゆく陽を、彼らの影街全体を伴奏しているように遠く響き、戦場ヶ原を照らす日の光はハーモニカのメロディに触れ反射するたびに冷やされ、霧となり、沈黙となって街を覆いはじめた。

とても大事な場所なのだ、私は無償に誰かと話したくなって、
「ここ、観た事、あるよ、、見たこと、ある、」と、何度か息を吐き出そうとした。

しかし声は私の期待を裏切り、私に飲み込まれた。

 

情景 4「歌えるもの」

 

妹から、水分を補給されて、声と一緒に水を飲み込んだあと、妹が何かの歌を歌っている声が聴こえた。

悲しい曲では無かった。

が、声はこれまで聴いた事が無いほどに、私のある感覚を刺激した。
悲しみに赤く彩られ、運命の青さに甘んじ、永遠であるはずの白を否定し、取り留めようのない黒を可能な限り拡大して、ただ、ただ、別れを惜しんでいる彼女の声には、特別なものが含まれて居る。

声には、痛みが、含まれて居たのだ。

わたしは、その痛みに耐えることはできなかった。

耐えかねる苦痛が奏でる至上の旋律が、私と妹が居る部屋を取り巻き、
私だけを、優しく、何度も殺した。

むしろ彼女は私をおそう痛みを和らげるために、長調の響きを精一杯の純正律で、私の顔のとこどこを埋める髭を微かに震わせる程度の、ともすれば声にもならない息で途切れ途切れに、メロディを構成する一つ一つの音価を反芻する様に、休みつ、動きつ、私のそばに近づき歌っていた。

私は、彼女の声に合わせ、霧の立ち込める広い樹海で見失った白い扉を目指して、とまりつ進みつ、頼りなくしかし確実に前にながれていた。

悲しい彼女の声が長調のメロディと相まって、今まさに美の関門を突き抜けるのを許されようとしているのを確認した私は、居ても立ってもいられずに、彼女の歌声に伴奏を付けるべく、左足のポケットに持っていたクロマチックハーモニカを取り出すつもりで、左手を動かそうとした。

手は動かず、クロマチックハーモニカは吹けない事がわかった。
しかし私は諦めずに、声で実現しようとしたが、もはや息も出なかった。

それでも私は諦めることが出来ずに、心の中で歌った。

何かが始まった。
広く、深く、答えであり、問いでもあり、特別でもありなんでもない事が。

私を包み始めた伴奏は、この上ない心地よさが霧と混ざりはじめた段階から次々に淡い色の変化を加え、目まぐるしくダカーポを繰り返した。

 

情景5 「風のコーダ」

 

至福の、虹を春の風で静かに掻き鳴らしたような忙しくも嬉しい時間は、首を落とした椿の褪色を思わせる虹の腐敗でもって最後のテーマであることを暗喩されていた。

私は、あの扉を開く時が来た事を直感した。

この痛みが彼女の美の一律を支えたのだ

これを探していた

ほら、ぼくがおとになったよ

ありがとう

聴こえたかな

じゃあ

とびらをあけてみます

白樺の樹海

4月の雪

木々の間を切る風

風の沈黙

小さな滝の小さな虹

真っ白な壁の静かな病院。

(2013,4/6 笠松)

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