ミニ小説「若き日のデカルト」

第一章 出会い

やがて始まるべきであった、新しい出会いは、この夢を見た時には既に始まっていたことになる。
まだ私は、興味の赴くまま、そして決して何物よりも優先すること無く、読書を続けていた。
そしてこの夢で彼女に会わなければ、私が、あの本を書く事は無かったのである。

彼女とは、明方からずっと激しく雨が降り続いたある日の午後に、私が中学生の頃に通った学校の校舎を抜け、どこへ行くでもなく、雨に濡れる全身を生温かく感じながら走り出した先の、突如見つけたとある食堂で、出会った。
彼女は、その食堂に居た三人の女性の一人であり、他の二人はそれぞれ、極端に性格付けされていた。
一人は硬い声で、場が白けるのを怖れてひっきりなしに笑いながら、事実はその店から一度も出た事が無い自分の人生を憎んで居た。憎む事で自分を愛していた。愛する事で、彼女は三人の中で一番強かったし、うわべだけの自信と自己愛から生まれた優しさを、一人一人の客に対していかにも最もらしい、特別な好意として表現する術を身につけていた。彼女はスターであった。
一方の女性は、必要な仕事を他の誰よりも淡々とこなし、姿が見えなくなったかと思うと、厨房で作った料理を持って出て来て、客のいるいくつかのテーブルを皿で埋めていった。彼女は、スターの高い笑い声にも耳を傾けながら一人、決して目立つ事のない自然な仕草を一生乱すこと無く、店を切り盛りしていた。彼女は人を愛する前に、労働者であった。

そして、そのもう一人を、私は忘れることが出来ないのだ。

第二章 声

もう一人の彼女を、私は今、ハッキリ思い出す事が出来ない。しかし、思い出せない事と忘れられない事が何も矛盾しないのは当たり前の事である。
身体を奇妙に温めていた雨も拭き切らずに、席に着いてしばらくして、彼女の佇まいが異常である事、その異常とは、普遍的とも言える肉体的均衡とその麗しき声の低さに、私は気づいたのであった。否、声はそれ程、低くは無かったのかも知れないが、時折発する彼女の声が持つ、響の圧倒的なふくよかさが、周辺を震わせていた。その周辺とは、彼女にとっての周辺であり、それは彼女以外の全てに及んでいた。スターも、労働者も。店内に散らばった数名の客たちも。二匹の猫。白から時間の経過によって薄い黄色に変色し始めたテーブル。簡易型の椅子。同じ木目が一枚置きに繰り返す合板の壁と、学校の視聴覚室と同じ天井。古い蛍光灯。逆さまに貼った札。停まった時計。そして私。そしてそれらの一切を、自動操舵している彼女は唯一、一瞬の時間を死に、次の一瞬へ生まれて移動しつづけていた。彼女は、究極の美しさ、生死の儚さと無限の傲慢さを詩う完全なる肉体を持って、その食堂に居たのであった。
その転生を私が理解する事が出来たのは、今、私が彼女を信仰するからであり、信仰とは何かを理解しているからである。
信仰とは、完全なる者を前に、自らの不完全に気付いたときに、始まる。

私は、彼女の声によって、私自身の身体でさえ、彼女に支配された、未だ私の外部である事に気付いた。
では、私とは一体、やはり彼女の声の一部なのか。私は、私が彼女の声に完全に協和しているとは考えられなかった。むしろ、こうした不完全な肉体をもった私が、彼女の声に対して不協和の響を奏でるのは明白であり、そしてただ許されて然ることと言えば、不協和の響に気付いた私こそ私の存在であるという認識と、完全なる協和に向う為の信仰である。
不完全な私が持ちうる感情は不完全でしか無く、したがって完全なる者への信仰自体が不完全である可能性もあり得る。しかし彼女の声の協和音の秘密を、結果として私が知り得た事は事実であり、それは遡れば究極的に原因であるところの彼女の肉体が完全である事に帰結し、その信仰が必然である理由になり得るのであった。

第三章 生活

私は、彼女の声に心惹かれた。信仰が生まれつつある事を意識しながら数日が経ち、信仰を疑い鍛えながら、数年が経った。
ある時から、私はその店の店主として、不完全なる肉体を食堂の経営の一端に滑り混ませていた。
スターは愛人として、労働者は妻として、そして完全なる者としての彼女は、やはり私の外部のままでありながら、食堂での生活は続いた。
信仰とは完全なる者との協和である。私は、彼女の声を賛美し、驚嘆し、時には涙を流しながら、食堂を経営した。
経営をしながら、労働者との信頼関係は深まり、それは愛である事に気付いた。
スターとは人間の理解を深め、私は詩を書く事を始めた。
完全なる者としての彼女は、相変わらず究極の美を表し続けているのと、少し声が以前より高くなっている様な気がしたが、客の注文をこなすのに追われて過ぎ去ってしまったことがあった。そしてある時から、何処かしら理解不能な、答えることが、出来ないか、出来たとしても、余りに単純で陳腐な質問を、私にする事があった。余りに簡単な質問に過ぎて、私は咄嗟にありきたりな返答をして、後日私はその答えをよく一人の時には思い出し、あれこれ別の答えを考え模索する様になっていた。

第四章 秘密

ある日、私は、彼女の秘密について気付いた事を思い出し、いつもの彼女の不可解な質問に対して、質問で答えた。
それを聞いた彼女は、見たことがない顔をして、そして完全に高い声を響かせて、「あたりだよ!」というと、店を出て行ってしまった。私は驚いて、少し追いかけたが、店の外には既に彼女の影も見当たらず、そこにいた我が娘の手をとって、質問の事には触れずに、食堂へ招き入れた。
これまで店を切り盛りしていた女と、客の機嫌を見ながら笑っていた二人の女は、一人の母として食堂の閉店の準備に取り掛かっていた。
私は、のれんを下ろし、店の内側にたてかけると、引き戸の内側から鍵をかけた。
娘は美しい声を響かせて閉店した店の中ではしゃいでいた。彼女は、私の気付いた秘密のせいで、より高い段階にいる、手の届かない存在になっていた。より小さな、秘密として。

第五章 信仰

私は、気付けば、老人であった。
私は老人らしい、ゆっくりした決断を心がけて、日々を過ごす方針を全うしていた。
語るべき事は語らず、語らざるべき事を、息を吐くついでに漏らすだけであり、それが決して何物をも冒涜する事のないようにだけ注意した。そして私の興味の対象は、いよいよ、完全なるものに姿を変えていた。
娘は、完全を表すまでもなく、完全な者としての完成を試みるかのように、生まれて間も無い赤ん坊になっていた。私は人生で得た限りない幸福について、感謝こめて赤ん坊を優しく抱き上げた。そして初めて、私は完全なる者の存在をそこに実感した。
神は、居た、のである。
私はついにある確信を得て、それと同時に何時の間にか、雨が上がっている事を発見した。
私は、私と供に年老いた女性に軽い挨拶をして、私と供に年を遡行した我が娘の柔らかい髪を、数えるでもなく摘み直ぐに指を離した。それは、愛しき有限であった。
私は、食堂を出た。

私は神の存在を示す方程式によって、不完全な人間の到達すべき結末を、導き出すことを決意した。こうして、私は、この夢から覚めたあとの人生を、信仰に捧げる。

(2012/11/11 笠松聡也)

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