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言葉のチカラ、音のチカラ

何か文書を読んで受け取った力を生活に活かしたり、音を聴いてまた生きる力にすることは、いまだにありますか?

商品として存在する音楽が、自分にとってあまり魅力的でなくなってきた近頃では、

商品としてではなく、また退屈でもなく、人間肯定的で、最後に重要な要素として穏やかに、奇をてらわずに素朴を紡ぎだすような、時代に逆らう稀有な音楽を、探す手間をかけてでも聴きたいと欲する体力がなくなってきているのも重なって、

そのような芸術作品として文学にその欲求を満たそうとすることが多くなりつつある様に思う。

随分まえに、

「姥捨て山のはなし」としてしか知らなかった「楢山節考」を読んだ。

ある時代、哲学としての「実存主義」が、「構造主義」にとってかわられ哲学の主流から降りて行くわけだが

音の、特にジャズの、実存主義的演奏(その頃はそう感じていた)の意味、価値について自分なりの結論が欲しくて、実存主義の代表的作品を東西、身近に感じるものから読んでいた。

その東にあたる中の作品の一つとして、「楢山節考」がリストアップされ、読んだのが最初であった。

この著者、深沢七郎は、文学作品が世に出るまで実はギタリストで、そのおかげでなんとなく親しみを覚えるけれど、彼の作品の世界観は、まるで馴染みの無い、暖かさと非情さの同居という独特、ある意味自分の知らない「田舎らしさ」に溢れていて、それでも取り付く自分の感心が何に向かっているのかの説明もナカナカなし難い、気味の悪さを含んだ美しさがあった。

幾つか読んで、自分はそこから構造主義の理解に移って行ったので、アクの強い田舎料理の、忘れ得ぬ後味だけが、脳裏の深沢七郎感を支配していた。

こないだ4月に、本棚を整理して沢山本を処分したが、「楢山節考」の入ったものと、「言わなければ良かったのに日記」という文庫を妻が出してきて読み始めた。

妻が読んでる近頃、頻繁に深沢七郎の話になるので、谷崎潤一郎賞を受賞したということで興味があった「みちのくの人形たち」というのを含めて四冊ほど、中古の文庫をアマゾンで買い、それをこの程読んでみたわけである。

楢山節考の頃に比べて、おそらく何年も経ってからの作品なんだろうと、おもう。

文章が、魅力的になっている。

調和を意図した逸脱も救済も、作戦の範疇になく、ただ丁寧になり、本人が感動している文章の下心の無さと、明るさ。

だから、薄気味の悪さもそれほど感じない。

その文章は、あまりに生き生きとしてる。

自分が、その現場に居合わせたとしたら、この著者のようには感じないような、僕の全く興味のない、田舎と、人形と、知らない人達の話が、とてつもなく僕を引き付け、何の違和感もなく著者と相席し、話がおわると去るだけ。

深沢七郎、たぶん、もっと評価されるべき世界観なんではないかと思う。

そして、こんな音を作ることが出来るのか

(こんな音とは、価値の構造を掴みきれないような、古びて誰も忘れてしまったような、純粋さ?を、誰のためでなく歌いきる原初的な音、と言っておこう)

そこに価値はあるのか。

答えは、深沢七郎が言ってる。

好きなことを書いただけだ、と。

僕も、好きなことをしなくてはいけない。