木曜日はいつも

休息の日です。

火、水と長時間、何かしら音の聞こえる、分厚い壁の部屋の中にいるので、

木曜日は開放感にこころを遊ばせつつ、心身の回復を計ります。

昨日は行きの電車や授業の合間に、新曲の歌詞を書きあげて完成させました。

今読んでる本が川端康成の「山の音」というもので、半分よんだところで、未だに何がテーマなのかわからないような内容ですが、何となく「老い」に焦点が絞られていくような印象で、

そのせいもあってか、組曲三部作の二つ目としていつかは書かなければいけないと思っていた「死」をテーマにしたもの、に取り組みました。

何のためにそんなことに取り組むのでしょうか?

音楽家は、楽器を弾いて曲をつくって、その結果、何がのこればいいですか?

これが人によって全く違うところです。

音楽は、音楽のみで存在?しない。

聞き手が他者として存在する。

他者によって認知され、はじめて自己を認識できる人間にとって、音楽以前にそれがあってはじめて生きている価値を知れる、という哲学的な意味での構造理解は、べつにフツーの生活にとっても当たり前のことで、なんら難しいものではないと思ってます。

では音楽で、家族を養えるお金が稼げればいいのか?

それが音楽の目的でも価値でもない。

経済的な基準によって、他の価値観(芸術しかり)を、なにごとも左右するのは事実で、しかしその社会の外圧を当たり前のことと感じる私達にとって、個人の大事なものを、自己同一性を大切にするために、芸術があります。

そこに当たり前の経済的価値観を潜り込ませることの不純、弱体化を芸術家が率先したり無知盲目的に肯定することは、ハタシテ意味があるでしょうか。

では自尊心を満たせればいい?

自尊心は究極的に他尊心と同じです。

責任能力の及ぶ範囲では、他者は自分と同じではないでしょうか。

隣が不快な顔をして、私は心地よく過ごせますか。知らない人にも及び得ることですが、全人類に責任を持て、と言ってるわけではありません。せめて、隣人、です。

では、何が残ればいいのだろう、とそこで考えます。

なにを優先してその瞬間、その作品、になっているのかを伝えられる、音楽。そしてそれはジャンルを超えてどんな芸術作品も同じ。

だから、音楽によって表現出来る最大且つ最高のものとは、社会の方向性であるし、そうでなければ、最大でも最高でもないだけのことである、とおもいます。

上手くなってから、そんな大事そうなことを考えるという段階論もありますが、それは違うとおもいます。

表現は最初の一挙動から、取捨選択が始まっています。

ということは、あとでそれを、という優先順位の表現でしかないのです。

そして、それを後回しにする人は、結局その人の人生全てその価値観で行動して、変わらずずっとそのままです。

死について、それを「死んでないからわからない」という表現の、なんと底の浅いものかと、僕はもし自分がそうだとしたら、なんと恥ずかしいことでしょう。

それら、たった一つの答えではなく、どこかに正解があるわけでもないことに、答えは得ずとも、真正面に取り組むことは、作品が自画像だとすれは、その背景描写だと思っています。

よく寝たら、すこしブログを書きたくなりまして、久しぶりに更新です。

——

組曲№2 Lyrics
海の赤をあつめ

染めたきみの唇は

鮮やかに彩り舞い落ちた葉の影で閉じて

かりそめにこころを留めた

あの歌もただ空となる

ルルルルルルル

こだまするおもいでも

風にのる

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