「詩」カテゴリーアーカイブ

とうとうその日が来て

明日は夕方から学校だが、

午前中に行かなければいけないところがあって、

この一年の結果としてのこの日に、気持ちが塞いでいる。

お葬式である。

以前このブログに、僕が音楽葬には行かないと決めていることとその理由を書いた。

あしたはそうではないようなので行くつもりにしている。

人はみな、いつか死ぬが

死ぬのは早いほうが遅いよりも惜しまれることが多いだろう。

しかしどうであれ何を生きてる間に優先してきたのかが、その人の死を意味付ける。

惜しまれ、必要とされた事を、家族や式に参列する人達を通じて共有してもらえれば、自尊心を大事にして生きていた人にとっては幾らかの満足感があるかもしれない。

そして殆どの人がそうなのだろう。自尊心とは、全ての人にとって重要なものだという気がする。

そして、私の母のしのように、自尊心を捨てるという自尊心もありえる。

それほど自尊心は重要で、人間の一番深い所に繫がる亀裂だとおもう。

自分は何を優先しているのだろう。

自分がどんなつもりであろうと、やはり同じように、自尊心が支配している普通の人間なのだとおもう。

ーーー

死が近づくとき、

死を自覚したとしても、しかしその死の自覚に、周りの人間は気づかないふりをする。

当然かも知れない。

自覚したよ、とは本人は言わないし言うつもりもない人がほとんどだろう、

そして、回復を、あなたと同じように自分自身が諦めていない、そう思ってもらいお見舞いに来た人に気を遣わせないように振る舞う。

だから会いにいくと、人は

また、元気になって会おうね、

あのときのメンバーでまた演奏しよう、

元気になって、またピアノを聴かせてほしい、

そんな話をして、心暖かな

最後の時間を共に過ごし、

何時もより長く沈黙に耐えながら、どうすればその人の気持ちが楽になるのか、慰めることが出来るのか、わからないまま

しかしこうして会いに来て、顔を見て、話して、日常である事がせめてもの慰めのような、手探り自体が答えであるかのような、いつもと同じ自分の気配をできるだけその部屋にのこして、

自分たちの生活に帰っていく。

自分が去ったその部屋にいるその人は、自分が日常に帰って行くことを、いまどう受け止めるかさえ気がかりになりながら、だが勿論許してくれてるだろうと知りながら、貪欲に生き続けなければいけない日常に帰っていく自分は、

いま、ぼくはあなたから何を受け取ったのだろう?

まるで静物画を解釈しつづけるように

欲と無のはざまで

座り直し

座り直し

書かざるをえない。

ーーー

生きてる間にあと自分が出来ることを逆算し、

その人の死をそんな形で自分のものにして、その人と一緒に残りの人生を生きていけば、

それ以上何ができるだろう、と思う。

ーーー

追記

私は、お見舞いのとき

こういった、死についてお互い知らぬふりをして、

せっかく会いに行った人との最後の時間を、心のやり取りもなしに、生と死の果てしない距離を詰めないままその人と会話することが不誠実であるように感じる馬鹿なところがあって、

せめて私自身が死ぬまでに考えていることについて、

少しだけ話しました。

私が、床に居るあなたの考えていることがどういうものかは計りかねても、私は死について考えながら生きる人間であること、もしそれを共有できるのならば、

少しだけ近づけるようにおもい、

そう話したことを

書くかどうか迷ったのですが事実なので書くことにします