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3.11以後国老後産後八幸無く(3.14159265358979のパロ)

難解さに気を失いながら、本篇前の長い解説を終えて、やっとコサ本篇に突入のマルクス『資本論』。

今日はオートバックスにオイル交換に行って、待ち時間を使って久しぶりに開けてみた。

さて、これを読むことが、は、ハタシテ僕にとってなんの意味があるのか。

これは常に自問していて、答えは勿論読了後に、せめてボンヤリでも死ぬまでには滲み出てくればいいなあ、そんな感じかなと想像しつつ、幾つかは読書中に気をつけて行こうと思っていることがある。

一つは、マルクスについてよく書かれているような、マルクスの論理性、文章の上手さについて、身を持って体験し、気になる部分は抜き出して、せっかくだからこのブログにも忘備録的に書き残し、不特定の方と共有したいとおもっている。

二つめは、頭の体操。すうどくの言語版のような楽しみ方。

で今日三つ目が突如脳裏をよぎった。まだ一巻の第一篇、第一章、第一節『商品』について読み始めたばかりなのに早速書きたいことに思い至ってしまった。

三つ目は、だまされない力を手に入れる、だ。

3.11といえば、4年前の悲劇を日本人なら皆思い出すが、

オートバックスで誰もみていないテレビに、その関連の番組が流れていて、資本論を読みながらボンヤリ考えていた。

商品とは、ということから資本論は始まっている。第一節によると、今のところ大まかに言って、商品とは交換価値であるということである。

そこでおもむろに「故郷を返せ」という情緒的な言葉がテレビから聞こえてきた。

なぜか、、弱い。弱いぞ?

情緒に訴える言葉は民衆には届きやすいが、公民(権力者)には届かないのではないか。

しかし、こういうときに、広島の原爆被災地で「戦争ゆるすまじ」だとか、四年前の原発事件(もう、事故でなく事件というべきである)でのこの「故郷を返せ」だとかいうふうに、情緒に訴えようとする。

日本ではこういうことがよくある。

これは公民によって、情緒的にすることによる言葉の弱体化を意図された結果なのではないかと疑っている。

その効果として、例えば「戦争ゆるすまじ」という言葉では、罪の所在が曖昧になる。

実は罪の所在地は、アメリカでも自民党でも共産党でもなく、全ての国においての時の権力者達なのである。(民主国家ではそれが国民であるという、恐ろしい事実もある。)

したがって4年前の原発事件の場合は「故郷を返せ」ではなく、交換価値を明確にするために具体的な額面をそれぞれ表明して「◯億◯千万円を返せ」というふうにすればいいと思う。

なぜ被災者の方々が、四年経ち、親族友人の死を乗り越え、しかし未だ、将来に希望も望めないような状況にあるのかと言えば、それは、

親族の死についての賠償金+精神的被害の賠償金+土地の権利者として価値+住宅の価値+以前生活していた職業を失うことによる賠償金+子供達の将来に渡っての学業、就職、健康に対する補償金、そしてそれらが支払われるまでの未払利子!等、

自らの加齢も加わってますます増える負担と、それに反比例する、気力減退に対する補償

これらがもつ交換価値を、正当に評価しないまま、なし崩しで再稼働まですすめる権力者達の弱者切り捨ての論理に由来する。

そして、この膨大な金額を、国は評価する気が無く、担保できないのであれば、

日本(世界)は原発をやってはいけないのである。

☆☆

ということが、交換価値、という言葉によって明確にされた。

資本論への挑戦は、これからまだまだ続く。